広島の日 | 乖離のぶろぐ(*´∀`)吸い込んで応援
(゚ω゚)福島で住んでいると人生40~50年なのかもしれない。
(゚ω゚)広島で短命なニュースを見ると、早めに逃げたほうが良いだろう。

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http://www.chugoku-np.co.jp/abom/04abom/04hiroshima_miraidengon/050320_01.html
女学生が発した「全滅です」

被爆者から
岡ヨシエ(おか・よしえ)さん(74)

  原爆投下当日、中国軍管区司令部作戦室から、広島壊滅の「第一報」を発した一人。60歳のころから修学旅行生たちに証言しているが、ここ5年間は体調を崩し、活動を控えている。
若者へ
佐々木祥子(ささき・しょうこ)さん(16)
田所珠梨(たどころ・じゅり)さん(16)

 2人とも比治山女子高(南区)1年生で放送部員。被爆60周年特別番組を制作するため、先輩の岡さんを訪ねた。夏までに映像、ラジオのいずれかに編集し、一般公開も考えている。

 原爆が投下された午前八時十五分の直前、軍人から女学生へと一枚のメモ書きが回った。「八・一三 広島、山口、ケ・ハ」。八時十三分に警戒警報発令―との意味だ。

 比治山高等女学校(広島市南区)三年生だった岡ヨシエさん(74)=中区=はメモを握り、広島城本丸(中区)の一角、半地下式の中国軍管区司令部作戦室で交換機に向かった。警報を役所や放送局などに伝えるためだった。読み終えないうちに、窓から爆風が舞い込んだ。体は持って行かれ、意識を失った。
 半地下室には、さまざまな運命が絡み合う。警戒警報や空襲警報の通信伝達業務に動員されていた岡さんたち約三十人の同級生は、前夜からの夜勤組。午前八時に交代するはずが、なぜかその日は遅れた。爆心地から約五百メートルと近い。もし地上にいたら、恐らく命はなかっただろう。

 しかも岡さんの記憶では「B29一機が接近」との情報が司令部に入ったのは八時十分ごろ。警報が間髪入れず発令されていれば、多くの市民の運命も一変しただろうか。

 意識が戻った岡さんが城の堀土手から望むと、見慣れた景色は消え、約三キロ先の広島湾まで開けて見えた。負傷した軍人から「新型爆弾」との言葉を聞き、足がすくんだという。作戦室に戻ると級友の一人が電話に応対していた。自分も受話器を取り、つながった福山の部隊に見たままを伝えた。「広島が全滅に近い状態です」

 それから六十年。岡さんは、孫の年ほどの後輩からインタビューの申し込みを受けた。戦後、比治山女子高と名を変えた母校の一年で放送部員、佐々木祥子さん(16)と田所珠梨さん(16)。

 放送部はこれまでも、岡さんの体験を聞き取っている。二人は部室に残る取材ビデオを繰り返し再生し、モニター越しに岡さんと向き合った。自分たちと同じ年ごろに、先輩は何を感じたのだろう。直接聞いてみたいと思い始めた。戦中の少女の心境、被爆後の人生も。

 旧作戦室は今も残る。二重に掛かる錠前を外し、二人は岡さんの記憶が詰まる扉の中に飛び込んだ。

【写真説明】広島城の堀土手で、「あの日」の惨状を佐々木さん(左)と田所さん(中)に聞かせる岡さん。足元に旧作戦室がある(撮影・荒木肇)



(゚ω゚)被曝すると短命?

http://mytown.asahi.com/hiroshima/news.php?k_id=35000161104270001
ここで話さないと 岡ヨシエさん

2011年04月27日
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被爆当時働いていた場所を指さし、体験を話す岡ヨシエさん=広島市中区基町の中国軍管区司令部跡
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証言を始めたころは中に照明がなく、懐中電灯を持って話した=本人提供

 「ここで話さなければだめなの」。広島市中区基町の広島城近くに残る地下壕(ごう)の跡を前に、岡(旧姓・大倉)ヨシエさん(80)=同区=は言った。

 「広島、全滅です」

 66年前、この場所にあった中国軍管区司令部から、ヨシエさんが市外の連隊司令部にかけた電話が、原爆投下の第一報になった。薄暗い壕を背にしながら、ヨシエさんは語り始めた。

     ◇

 1945年夏、比治山高等女学校(現・比治山女子中・高)3年のヨシエさんは、動員された約90人の同級生らとともに、中国5県を統括する軍管区司令部で働いていた。軍施設や報道機関に空襲警報を電話で伝達するのが主な任務だった。

 8月5日は夜勤。それまでほとんど広島上空に来なかった米軍機が何度も飛来し、ヨシエさんは警報の発令と解除に追われた。一睡もできずに朝を迎え、空の青さに目がちかちかした。

 勤務終了時刻の午前8時になっても、なぜか交代の生徒が来なかった。9分後、米軍機が西方から広島市に接近中との情報が入る。警報発令の指示がなかなか出ない。やきもきしていると、軍人がいる隣室との扉の間からメモが出てきた。「八・一三 広島 山口 ケ・ハ」。8時13分に広島、山口両県に警戒警報を発令せよとの意味だ。電話交換機に向かった。「警戒警報はつ……」。「発令」と言い終えないうちに、壕の小さな窓がパッと光った。直後に猛烈な爆風。意識が遠のいた。

 爆心地から700メートル。気がつくと、目の前は灰色だった。5メートルほど飛ばされ、交換機に挟まれていた。

 壕の外に出てみると、司令部の庁舎がつぶれていた。広島城の石段に登って南の広島市街を眺めた。一面のがれきの山になっており、海までが一望できた。倒れていた軍人が叫んだ。

 「新型爆弾にやられた」

 ヨシエさんは壕に戻った。「この状況を伝えねば」。線が絡まり合った電話の山から、受話器を持ち上げた。ダイヤルを何度も回すうち、福山市の歩兵連隊司令部がつながった。

 「大変です。広島がやられました」

 「司令部がやられたということか」

 「いや、全滅です。広島の町が全滅してるんです」

 「全滅なんてあるかっ。もっと分かるように言え」

 「新型爆弾にやられたと言っていました」

 「新型爆弾なのか」

 そのとき火柱が壕の窓から吹き込み、あわてて外へ飛び出した。広場では、30人ほどの軍人たちが倒れていた。全身黒こげで空をにらんだまま死んでいる兵士、ある兵士の頭は割れ、はみ出した脳が脈打つようにヒクヒクと動いているように見えた。

 大粒の雨が降り出した。水滴が黒かった。当たると、体が痛かった。服がぼろぼろになった生徒同士で身を寄せ合い、一夜を明かした。翌日以降は、近くに設けられた仮収容所で、負傷者を看護した。痛みにうめきながら、同級生たちが次々と息絶えていった。

 ヨシエさんは広島市仁保町大河(現・南区)の自宅に1回帰っただけで仕事を続けた。8月15日の天皇の玉音放送は職場で聴いた。意味はよくわからないが、戦争が終わったらしい。「よかったね」と仲間の生徒に言うと、「負けたんだよ。ばか」とたたかれた。

 3日後に解散命令が出て、自宅に帰った。両親は無事だったが、建物疎開作業に出た5歳上の兄は大やけどを負っており、同月28日に息を引き取った。

 ヨシエさんも帰宅後、脱水症状に苦しんだり、傷口が化膿(か・のう)したりし、山県郡の母の実家で療養した。20歳で結婚し、長男を生んだ。ただ、長男は1994年に38歳で早世。行政書士の夫も5年後に亡くなった。

     ◇

 90年、一人の男性が訪ねてきた。長崎で被爆した元中学教員で、広島を訪れる修学旅行生らの平和学習を支援してきた故・江口保さん。昔のヨシエさんと同世代の子たちに「戦争当時、どんな人生を歩んだかを話してほしい」と頼まれた。

 ヨシエさんが何度断っても、江口さんはあきらめず、毎日のように通ってきた。熱意にほだされた。

 司令部跡で初めて証言をした時には、涙で言葉が途切れた。あの頃の同級生たちの悲痛な姿が脳裏に浮かぶ。いったんは証言を続けることをあきらめた。

 だが江口さんは「生かされたあなたにしか伝えられないことがある」とヨシエさんを励ました。苦しさを押し殺して証言を続けるうち、真剣に耳を傾けてくれる子どもたちの後ろで、同級生たちが聞いてくれているような気がし始めた。「彼女たちがどれだけ一生懸命に生きていたかという証しになるのでは」。そう思えるようになった。

 「あなたの顔も真剣そのものだったわ」。肌寒い壕の中で立ったまま、2時間以上も話してくれたヨシエさんは、私をねぎらってくれた。ヨシエさんの話を、しっかり伝えたいと思った。(山本恭介)