宮崎駿監督 | ぽち風呂 ぽっちーのOFFログ
宮崎監督が引退すると聞いて、やはり最初の感想は「ナウシカやラピュタみたいな作品を最後に作って欲しかった」という寂しさだった。これらを少年時代、青年時代と何度も何度も繰り返し見て、その都度年齢と共に感じ取ることも変化しながら育ってきた私たちにとって、この感想は自然な感情だろう。

自分の人生の幕引きが自らできるということは、幸せでもあり名誉なことでもあり、そして実に重く残酷なことでもある。

先日、風立ちぬを映画館で観て来た。

実は映画館でジブリ作品を観るのは初めてだった。元々、映画館で大勢の人々と作品を鑑賞するのは苦手だ。美術館や寺院とは全く違う。例えるなら、温泉と似ている。入ってしまえばとてもいい時間なのだけれど、どうもソワソワしてそこに行くまで勇気がいる。だから、今回は偶然が重なって足を運んだだけだった。

ジブリ作品の作画や背景画は手書きだという。最大32インチの家庭サイズでしかそれを見たことがなかったので、「なんて根気よく描けるんだ、絵の具はどんなもの使っているんだろう」などと、美術科出身らしい残念な目で見ていた。
今回、初めて大きなスクリーンで目の当たりにして思ったのが、「大きな油絵を何枚も見ているようだ」ということだった。決してCGとは違う、目触り、色の感触。目に色が触れてくるのだ。それを体感できただけでも、映画館で観て良かったなと思えた。しかし、それ以上にストーリーが進むにつれ、「映画館で観てよかった」ともっと別の次元で強く思えてきたのだ。

これはジブリ作品という枠ではない宮崎作品ということ、それはすぐ分かる。これまでの作品とは違う。いや、作り手側にしてみたら作品はどれも違うのだろうけれど、これはそういったことではなく、違うのだ。

これは宮崎監督が好きに描いた壮大な遺書みたいだ、そう思った。引退するということがすんなり納得できた。引退発表前に観ていたら、発表を聞いても「ナウシカやラピュタみたいな作品を最後に作って欲しかった」とは思わなかったかもしれない。だって、作中にも出てくる「創造的人生は10年」、それが終わったから引退する、何とも最もな理由をキャラクターにちゃんと言わせているではないか。映画館で観てよかった。

昔は、となりのトトロはあまり好きではなかった。最近、母からメイちゃんは私の幼い頃に仕草や話し方がとてもよく似ていると聞いて、何だか親しみが湧いた。魔女の宅急便は可愛くて大好きだった。同じようなほうきを買って、庭を掃除したりしてみた。それが20代の終わり、久しぶりに見たら初めて涙が出た。

ナウシカやラピュタの続き、物語の続きはこれからわたしたちが描くことであり、そしてもうそれは始まっているのだろう。もう、宮崎監督は道の少し先に人生を解く手がかりを新しく置いてくれることはない。
それでも作品はずっと寄り添ってくれる。これまでもそうだったように、大好きな作品の中からヒントはいくらでも自分で見つけ出すことができるだろう。