イの国探検隊フアンの皆様こんにちは




ああ、イの国よ永遠なれ!




(イの国かすりましたので、ゆーてええやろ?え〜やろ〜)


(必死の形相で)





コロナ禍、皆様はいかがお過ごしでしょうか


歯茎が炎症、肩凝り、全身倦怠、夏の疲れが抜けきらない今日この頃 





(加齢については、脳が炎症で)





高家(たかや)神社です。
坂出市高屋町にあります。





最近は、観音寺市の天空の神社「高屋神社」が注目されてますが、



日本の昔話によくありがちな、悲運なお方に関係する神社です。





この神社は、怨霊伝説で有名な崇徳上皇と関係がある処です。 アセアセオバケオバケオバケオバケオバケ






門が特徴的




なぜか、門の下に置いてある
塗り直したところかな

以前の「崇徳天皇 高家神社」の額を新調したのかな?







どっしりしたバランス良い感じ




猛暑でも雑草が元気
管理が大変そうです




拝殿、こじんまりしてます



のき丸瓦の菊の御紋が圧倒的
シンメトリー 綺麗だ




本殿





御祭神は、

天道根命 
アメノミチネノミコト

大鞆和気尊(応神天皇)
オオトモワケノミコト(オウジンテンノウ)

待賢門院
タイケンモンイン

崇徳上皇
ストクジョウコウ






この神社は白峰山北西麓、白峯寺へと続く180号線沿いに新四国曼荼羅霊場第14番・観音寺と隣接して鎮座しています。





観音寺
旧家の庭先って感じ
なんだかほっこりする佇まい
座って空見ながら番茶を飲みたい
にやりお茶お団子







ネット情報によると、

往古ここに高家首の一族が居住し、遠祖の天道根命を奉斎して氏神とした里人には森の宮とも奉称され 貞観9年従五位下を奉られています。 



天道根命(あまのみちねのみこと)は、
日本の神。

『先代旧事本紀』によれば
高天原から葦原中国へ降臨する事となった饒速日尊の護衛として付き従った天津神32神の1柱
紀伊国造家を始めとする紀氏の祖神とされ、神魂神の5世の孫で、伊蘇氏(伊蘇志)・楢原氏・滋野氏の祖と伝わる




四国だと紀貫之、菅原道真より30年ほど前の讃岐国司の紀夏井が有名だね
夏井さんは善政だったけど、平安時代前期の866年の応天門の変で、政界を出された悲運な方





待賢門院(たいけんもんいん)とは、女院号
藤原 璋子(ふじわら の しょうし / たまこ、1101-1145年は、第74代 鳥羽天皇の皇后
崇徳、後白河両天皇の母





この地で無念の最期を遂げた崇徳上皇の棺を白峰に運ぶ葬送の途中、高家神社(高屋町)までくると、にわかに風雨雷鳴が起こったので、葬送の列は いったん棺を大きい石の上に置きました。

するとその石に血がしたたり落ちました。
滝汗

棺を置いた石の 台は、今も境内に「御棺臺石」として移し安置されており、高家神社のことを「血の宮」とも呼んでいます。アセアセ

崇徳天皇縁の地です。
 







これが、血が付いた石🩸

大きい感じではない
分かりづらいが、ほぼ六角形


この出来事があり、お祀りしたようです。







崇徳上皇は、
1119-1164、第75代天皇。
1156年の保元の乱(ほうげんのらん)は、平安時代末期の保元元年7月に皇位継承問題や摂関家の内紛により、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、双方の力衝突に至った政変である。 
この公家の内部抗争の解決に武士の力を借りたため、武士の存在感が増し、後の約700年に渡る武家政権へ繋がるきっかけの一つとなった。





朝廷は新体制の確立を図るために保元新制を発令、それに先立つ閏9月8日に宣明を作成して石清水八幡宮に乱の勝利を報告した。


その宣明は、

乱の責任は崇徳上皇と頼長にあり、頼長が流れ矢に当たって死んだことを神罰として、上皇の配流とその他の者の処罰も国家による法に則った処置とするなど、後白河天皇方の勝利宣言といえるものだった。





崇徳上皇方が敗北し、崇徳上皇は讃岐に配流された。

以後、崩御まで帰京を許されなかった。
御陵も坂出市内にあり、帰京を許されなかったため怨霊と化したと言われる。




崇徳上皇は讃岐に流された後、後白河朝廷に対する激しい恨みを表現します。 

我魔性となり王を奪って下民となし下民をとって王となし、この国に世々乱をなさん」と言い、


自らの血で大乗経を書き

「この写経の功力を三悪道に投げ込み、その力をもって日本国の大魔縁とならんと言って、その経を瀬戸内海に沈めて呪詛

したと言います。



三悪道(さんあくどう、さんまくどう)とは、
三悪趣(さんあくしゅ)ともいう
仏教では、悪行を重ねた人間が死後に「趣く」といわれる3つの下層世界(地獄、餓鬼、畜生の3つ)を指す。


魔縁(まえん)とは、
仏教用語で、障となる(三障四)のこと。 また特に第六天魔王波旬を指す。 また、慢心の山伏である妖怪の天狗、即ち魔界である天狗道に堕ちた者たちの総称の場合もある。







そしてその後、爪も髪も切らずに、日々凄まじい形相になっていったと言います。 

都では上皇の不穏な動きを聞くに付け、状況調査の為平康頼を派遣しますが、康頼は「院は生きながら天狗となられた」と報告






隣りは、明見宮









病死と思われますが、暗殺説が昔からあります。 

伝説によれば暗殺を実行したのは二条天皇の命を受けた讃岐の武士三木近保であったとされます。(讃州府誌) 


崇徳上皇は最初長命寺、林田の雲井御所居にいましたが、3年目に国府近くの鼓岡にある木丸殿に移っています。

ここでは、一日中部屋にこもり,書物を読んだりお経を唱えたりしていました。




刺客が襲って来たとき上皇は柳の洞穴に隠れますが、三木近保は池に映る御姿を見て、切り付け弑し奉ったといいます。その地はその事から柳田といいます。




結構詳細に説明されている。










讃岐に流されて、
最初に松山の津というところに着船したと伝えられています。

昭和61年『綾・松山史』では,雄山の北東の麓を松山の津と推定しています。







私の感じるところ、

讃岐に流されて、打ちひしがれ、京を恋しがっていた崇徳上皇


三年もかかり多数の写経をし,和歌を添え京都に送っています。


「浜千鳥 跡は都へ通えども 身は松山に 音をのみぞなく」 


崇徳上皇としては、後の世のためを思い一心に写したお経を都に近い八幡山か高野山か、許しが得られれば鳥羽法皇の御陵に納めたいと思っていたそうです。

しかし、京都の朝廷は、罪人の写したお経はよいお経ではないと受け取らず、崇徳上皇のもとに送り返しています。





亡くなって棺から流れた血🩸には違和感がある。


病死なのに、血が流れる?
流れるくらいなので、量は相当なはず。

合点が、いくのはやはり


暗殺!? ムキー


説も、状況を詳しく語っているし、

京の後白河天皇が、非常に怨霊を恐れたことからも、殺しであったのはほぼ確実ではないでしょうか。


国に呪いをかけて天狗になったとされた。

以前の「イの国とはなんぞやブログ」に書いた相模坊が、崇徳上皇が亡くなって程なく、白峰御陵がある山、五色台に天狗の首領として居ついたのは、怨霊となった崇徳上皇を鎮める為だと思う。


今回は、讃岐に流され、暗殺?された悲運な崇徳上皇の存在が確かに神社は伝えてありました。

凄い善政を行っていた讃岐国司の紀夏井さんも、弟の豊城さんが、応天門の放火罪人とされ連座し地方へ流され、一連の政争だと感じます。


悪は、善よりも速いと、誰かが言ってました


虚しき秋風
ふく心地
宗(胸)も頭も
寂しからん


お後が、悪いようで えーん