イの国探検隊ファンの皆様こんにちは
今日も妄想で、かつてあったとされるイの国を探検だ!
夏井の子孫の久本氏が菅原道真を祭った、久本神社
近くには、石清水八幡宮がほとりにある久米池、古墳があった久米山、玄室に大きな棚がある久本古墳がある。
灯籠には桃の瓦がのせてある![]()
古事記の桃🍑か?
多分昔は屋根瓦だったものだろう
軒丸瓦には、16花弁菊花紋
神社建立に関わった久本氏らの名が刻まれているようだ。
土佐国へ護送中、肥後国の百姓等は父母を失うがごとく嘆いて夏井の肥後国外への移送を拒もうとしたり、讃岐国の百姓等は讃岐国内から土佐国の境まで夏井に付き随い別れを惜しんだという。夏井自身も、自らが変に全く関与していないにもかかわらず連座し、首謀者とされた伴善男と同じ流罪となったことを密かに嘆いたという。
中央・地方を問わず人望のあった夏井の失脚は、武内宿禰以来の名家である紀氏の政界における没落を決定的なものとした。この事件の後、同氏は宗教界や歌壇において活躍する氏族となっていく。
菅原道真
夏井が讃岐守の任期を終えて20余年後に、第59代宇多天皇は摂政・関白を置かず、藤原氏を押さえようと菅原道真(すがわらのみちざね)を国守として登用しています。
ですが、讃岐国の百姓は紀夏井の善政を忘れていなかったため、道真は夏井と比較され国政運営で難渋したともいわれています。
松尾芭蕉さんの詠んだ句を妄想で勝手に訳します。
気分が悪くなる方がいらっしゃる可能性があります。
石つぶてなどは投げないでください。
美味しいからといって、エサなどを勝手に与えないでください。
悪しからずご了承ください。![]()
雲厳寺
「木啄も庵はやぶらず夏木立」(by芭蕉)
(きつつきも いおはやぶらず なつこだち)
一般的な訳
(夏木立の中に静かな庵が建っている。啄木鳥も、静けさを破りたくないためか、この庵はつつかないようだ)
雲巌寺(うんがんじ)
日本の北関東、栃木県大田原市雲岩寺山号は東山(とうざん)。本尊は釈迦牟尼仏(銅造釈迦如来坐像)。開山は後嵯峨天皇の第二皇子、諱は顕日の高峰顕日(仏国国師)、開基(創立者)は叟元和尚(寺伝)。
禅宗寺院としての開山当時は、筑前の聖福寺(現・福岡県福岡市博多区に所在)、越前の永平寺(現・福井県吉田郡永平寺町に所在)、紀州の興国寺(現・和歌山県日高郡由良町に所在)とともに、日本の禅宗四大道場と呼ばれた。現在は令和7年5月20日付で臨済宗妙心寺派より単立した。現在でも単立寺院のまま修行道場は続けている。
雲巌寺は、平安時代後期の1126年~1131年間に初叟元(しょ そうげん)和尚によって那須12郷の一つである山田郷須佐木村の奥の霊気漂う理想的な場所に旧仏教系寺院として開山されたという。しかし寺は何時しか荒廃してしまった。
復興させたのは高峰顕日(仏国国師)で、1283年、時の執権・北条時宗を大檀那とし、高梨勝願法印の寄進のもと、臨済宗寺院として改めて開山したといわれる。
無住妙徳禅師が住職となった1578年、雲巌寺は臨済宗妙心寺派へ改宗された。1590年の豊臣秀吉による小田原征伐では、烏山城の那須資晴が恭順せず、城攻めの際には付近の住民が雲巌寺に逃げ込む。豊臣方は、北条氏を大檀那とするこの寺を軍事要塞と見なし、火を放ったというが、数年後には再建されている。
当寺は俳人・松尾芭蕉が奥の細道紀行で立ち寄ったことでも知られる。寺域には当時の住職であった仏頂禅師と芭蕉の歌碑があり、以下の2句が刻まれている。
「竪横の 五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやし 雨なかりせば」(仏頂)
「木啄も 庵はやぶらず 夏木立」(芭蕉)
木啄(きたたき)
キツツキ科の鳥。全長約46センチ。全体に黒で腹と腰が白く、雄では頭頂部とほおが赤い。東南アジア、朝鮮半島に生息。日本では対馬に生息したが、絶滅したとされる。
過去探検から
木=紀
「たたき」とは?
笞罪(ちざい)、笞刑(ちけい)とは、体刑の一つで、笞(むち)を打つことによるもの。鞭打ち刑。
鞭打ちを刑罰として課す事は大和朝廷の頃から行われていた。「紀」に敏達天皇の時代に仏教弾圧を進めた物部守屋が尼を鞭で打ったとあるが、刑罰として法的に整備されたものは大化の改新から天武天皇の時代に導入されたと推定されており、大宝・養老両律令においては単に笞(ち)と称され、笞罪(ちざい)と呼ばれる場合もあった。訓読みは「之毛度(しもと)」。最も軽い刑罰であり、木製の笞杖によって臀部を打った。笞杖の大きさは手元で3分(約9ミリ)、先端は2分(約6ミリ)、長さは3尺5寸(約1メートル5センチ)と定められ、受刑者の皮膚を破らないように節目などの凹凸は削られたものが使用された。
江戸時代に入り、非公式な組織内刑罰だった鞭打ちが、徳川吉宗によって、公式の刑罰、敲(たたき)として復活した。回数によって、50回のものを軽敲、100回の、いわゆる百叩きを重敲と呼ぶ。盗みや喧嘩などの軽犯罪を対象としており、一揆における便乗犯にも、この刑罰が加えられた。箒尻と呼ばれる長さ1尺9寸程度の竹製の鞭が使われ、背骨を避けて肩・背中・尻を叩く。庶民の男子のみに対する刑罰で、武士には執行されなかったが、浪人には執行された。
徳川吉宗が成立させた「公事方御定書」は、それまで希薄だった「更生」の概念を取り入れ、犯罪者がもう一度社会に戻れるように配慮した刑罰が採用されたそう。
鉦叩(かねたたき)
中世・近世(12世紀 - 19世紀)の日本に存在した民俗芸能、大道芸の一種であり、およびそれを行う者。
「鉦叩」のスタイルは、摺鉦・鉦鼓を首から提げて叩きながら、経文等を唱えて、金銭を乞い歩く。剃髪し袈裟を着用した「僧形」ではあるが、宗教者ではなく巷間の芸能者。
15世紀に尋尊が記した日記である「大乗院寺社雑事記」によれば、大和国奈良の興福寺では、同寺に所属する芸能者である「声聞師」たちが、「猿楽」、「鉢叩」、「猿飼」等と同じ「七道者」として、「鉦叩」たちを支配していたとのこと。
東海道の金谷宿(静岡県島田市金谷)から掛川宿(掛川市掛川)にかけての地域では、1804年 ~1818年まで、「八柄鉦」の芸能が行われていた。徳島県三好郡の地域史書「三好郡志」(1924年)には、辻町大字西井川(現在の同県三好市井川町西井川)に「鉦叩」として、僧侶のような名をもつ「空識」(1674年)、その子孫で「鉦叩」の「自傳坊」とその弟で同じく「大光院」(1813年)といった一族について記述されているとのこと。
(香川県内に約800組ある獅子舞集団のひとつ上小原獅子組のHPより抜粋)
春日神社は平安時代の藤原氏の隆盛に伴い全国に広まりましたが、当社の発祥は不明です。最古の記録は『道隆寺温故記』によるもので、応永21年(1414)に遷宮したことが記されています。室町時代初期には既に祀られていました。それ以前は大和春日の社領(荘園)で、社の背後の地一帯は古墳だったとされていますが、定かではありません。
御祭神:天児屋根命アメノコヤネノミコト (別名:春日大明神カスガダイミョウジン・春日権現カスガゴンゲン)
上小原獅子組の奉納神社は集落内にある山階の春日神社です。この神社は山階の氏神様で、秋季例大祭(大祭り)の時は山階にある他の集落からも獅子組が集まります。
獅子舞道具 「鉦」
鉦カネ(平鉦ヒラガネ)
鉦は金属製の打楽器です。香川県内でよく使われているのは平鉦と呼ばれる鉦で、皿のような形をしています。もとは仏具で、中世の念仏踊りなどで手で持って鳴らす楽器・摺鉦スリガネでしたが、次第に芸能のお囃子で使われるようになり大型化したとされています。
直径は1尺強(30cm余り)あります。木の台に吊るし、棒で打つと「カンカン」と甲高い音が鳴ります。
庵(いおり)とは
世捨て人や僧侶などの閑居する小さな草葺くさぶきの家。草庵。いおり。
「庵を結ぶ」とは、簡素な小屋や仮住まいを作り、そこで生活や仕事を行うこと。
草ぶきの小屋。茶室などの小さな家。「庵室」「草庵」
大きな禅寺に付属している小さな僧房。
文人の雅号や屋号などに添える語。「芭蕉(ばしょう)庵」
「庵形」いおり(いほり)がたの略
【庵形】家の屋根の形をしたもの。紋所では両側に柱をそえる。
庵紋は、粗末な仮小屋である庵をモチーフとした家紋。中世では出家者の活動拠点となる一方、風流なものとして絵巻物などに多く描かれた。庵紋としては、庵だけ独立して描かれることは少なく、他の紋を中に描くことが多い。初期の庵紋は屋根と柱の区別がなく曲線で描かれていたが、江戸時代以降は三角形の屋根と長方形の柱の組み合わせで描かれるようになった。その形が素朴で風流なことから用いられるようになったと思われる。藤原南家乙麿流工藤氏や伊東氏の一族の代表紋。
使用地域:関東地方、東北地方
使用家:伊東、伊藤、工藤、三隅、河津、興津、宇佐美、狩野、曽我、二階堂、久須美など
戦国武将:板橋忠康、鎮目惟明、伊東祐兵、伊東祐時、河田長親
「やぶる」とは
薄いものを部分的にまたは完全に分断する。
平穏な状況や安定した状況を突然乱す。
夏は、四季のひとつ・夏の季節・古代中国の王朝名・中国・中国人の自称・大きい・さかんなという複数の意味の系統を持つ漢字です。
現代の日本語ではなつ・夏という季節名が最も一般的な用法ですが、漢字本来の歴史を見ると、中国の古代王朝夏・かや中国そのものの呼び名として使われてきた奥深い字でもあります。
鰐・天津神様のイの国阿波神山からの流れをも示す細い(かすかな)道を通ってよし(葦、吉)とのことで
大人の女性になった海神(わたつみ、渡積)の祝いに天皇(天津神+素戔嗚)の印章を大神(おおみわ)神社へ納めに行く歌で、
長江で稲作してた倭(イ)人だった長国の善入寺島民らは宮の命で通ってよし!という歌だったんだね
(イ探妄想だけどの~)
「忌部山から那羅街道を難破へ」とりあえず完結!
こしきゆかしく、甑(こしき)で蒸したもち米の強飯(おこわ、赤飯)で、角を隠してお祝いしたいところ。
「夏山」は、緑が最も深く、生命力が溢れ、木々が隙間なく生い茂る状態。
藤原氏(特に北家)が、他の氏族(橘氏や紀氏、伴氏など)を圧倒し、朝廷の要職を独占していく「氏族の全盛期」を視覚化した隠喩ではないか。冬(停滞・衰退)を終わらせ、永遠の夏(絶頂)を維持しようとする政治的意志が感じられる。
⇒ 繁栄と「盛り」の象徴ではないか
⇒中国渡来の紀氏たち
「木啄も庵はやぶらず夏木立」(by芭蕉)
(きつつきも いおはやぶらず なつこだち)
が伝えたいこととは!
「孝元天皇を祖とする紀氏を叩く者も 隠居では叩けず 渡来の倭人紀氏は立派である」
イの国~東北への細道は、あり〼!
やっぱ、いいすぎかの?
by隊長
けつねうろん妄想ジャンカー イの国探検隊日月ホトトギスがお伝えしました。
ではまた![]()






