イの国探検隊ファンの皆様こんにちは

 

今日も妄想で、かつてあったとされるイの国を探検だ!

 

 

 

 

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 さぬき市志度

補陀洛山 志度寺

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前回の古蜀関係

 

 近年の高精度な古人骨のゲノム解析(東京大学などの研究)により、日本列島に渡ってきた「渡来系弥生人」の遺伝的ルーツは、主に朝鮮半島や中国東北部(遼東半島など)の沿岸部を経由してきた人々であることが分かっている。

一方、古蜀の人々は現在の中国西南部の山岳地帯に住む少数民族(イ族やチベット・ビルマ語派の系統)の先祖である可能性が極めて高い

遺伝子的に、弥生人と古蜀の民が直接結びつくデータは現在のところ見つかっていない。

 



 

 

 

 

 

 

 

 
 
 
 

松尾芭蕉さんの詠んだ句を妄想で勝手に訳します。

今回は曾良の句。

気分が悪くなる方がいらっしゃる可能性があります。

石つぶてなどは投げないでください。

美味しいからといって、エサなどを勝手に与えないでください。

野生でなくなります。

民家近くに出没したくなります。

「ここはおらのテリトリーだ」と思ってしまいます。

そこに他者が入ると本能的にすぐ襲います。

悪しからずご了承ください。滝汗

 

 



    須賀川   

「風流の初や奥の田植うた」(by芭蕉)

(ふうりゅうの はじめやおくの たうえうた)

         

 

 

一般的な訳

「白河の関を超え奥州路に入ると、まさに田植えの真っ盛りで農民たちが田植え歌を歌っていた。そのひなびた響きは、陸奥で味わう風流の第一歩となった」

 

 

 

須賀川  

須賀川市(すかがわし)

福島県の中通り中部にある市。郡山都市圏。

歴史は古く、旧石器時代の乙字ケ滝遺跡を始め、奈良時代から平安時代にかけての遺構である上人壇廃寺址(国の史跡)など、古代からこの地が東北地方の要衝
鎌倉時代以降は二階堂氏の城下町として栄えたが、天正年間、伊達政宗に攻められ、須賀川城は落城(須賀川城攻防戦)。毎年11月の第2土曜日に行われる日本三大火祭りの1つ「松明あかし」は、このときの二階堂家の霊を弔う伝統行事。
江戸時代は白河藩領で、奥州街道屈指の宿場町として独自の町人文化も花開いた。江戸中期には俳諧が盛んであったため、松尾芭蕉は「奥の細道」の旅で須賀川宿に8日間も滞在

 


 

 

乙字ケ滝(おつじがたき)

福島県須賀川市と石川郡玉川村の間を流れる阿武隈川にかかる滝。日本の滝百選の一つ。

 

「阿武隈」とは、
伊勢神宮の場所を示す、佐久久斯侶伊須受能宮の意味、
「佐」=促す、「久」=久の形=二股、「久」=山稜、「斯」=切り分ける、「侶」=仲間
「山稜に促されて二俣に山稜が切り分けられたところ」と解され、
「伊」=小ぶりな、「須」=州、「受」=受け渡す、引き継ぐ=連なる、「能」=熊=隅
「小ぶりな州が引き連なるところの隅にある宮」と解され、
「伊須受」の「受」は、天宇受賣命、また後の美夜受比賣や毛受の「受」と同義であろうとのこと。
阿=始まり、伊予之二名島(阿波国)
武=水(むさし=水がさしこんだ)=龍神信仰?
隈=すみ=能=熊
熊野=祖谷=伊勢=阿多
 「阿武隈」とは、始まりの水際
つまり、海神で花は桜の神阿多都姫(コノハナサクヤヒメ)の阿多だ!

とも勝手に解釈できるんじゃないかい?


 

 

 

 

上人壇廃寺跡

昭和36年(1961)、JR東北本線複線電化工事に伴う発掘調査以降、数度にわたり発掘調査し、その成果により奈良~平安時代の貴重な遺構、遣物が発見された。
全国でも発見例の少ない六角瓦塔(ろっかくがとう)をはじめ、数多くの瓦、面硯(えんめんけん)(高台のついた円い硯(すずり))、土器類、さらに、規格性をもった堀立柱(ほったてばしら)建物跡などが検出され、当時の当地方における政治的施設
特に続日本紀(しょくにほんぎ)に記載されている養老2年(718)の石背国設置(石背郡がそれまでの統治国であった陸奥国から分かれ、白河・会津・安積・信夫の四郡とともに石背国の統治下になった)に深く関わる遺跡。

 

 

石背国(いわせのくに)

奈良時代に陸奥国から分立した短期間しか存続しなかった日本の地方行政区分だった令制国の一つ。

養老2年5月2日(718年6月4日)に陸奥国の5郡を割いて設置され、現在の福島県中通りと会津地方に当たる。

国府は郡山市方八町、または須賀川市の上人壇廃寺跡付近に置かれたと見られている。存続は数年間にすぎず、養老4年 (720年)11月26日から神亀5年(728年)4月11日にかけてのいつかの時期に陸奥国に復した。
 

 

 

 

二階堂氏(にかいどうし)

日本の氏族。
下級貴族(官人)、軍事貴族(武家)、名門(高家)、幕府官僚(幕臣)の一氏族。特に陸奥国岩瀬郡須賀川を支配し須賀川城を居城とした戦国大名が著名。
二階堂氏は藤原姓で、藤原南家乙麻呂流工藤氏の流れである。工藤行政は文官として源頼朝に仕え、建久3年(1192年)11月25日に建立された永福寺(二階建ての仏堂があった)の周辺に邸宅を構えた為、二階堂氏を称したという。

 

 

藤原南家(ふじわら なんけ)

奈良時代の藤原不比等の長男である藤原武智麻呂に始まる藤原氏の一流

「南家」の称は、武智麻呂の邸宅が弟房前の邸宅に対し南に位置したことに由来

子孫は、朝廷内では房前を祖とする藤原北家に押されて振るわなかったが、為憲流藤原南家の工藤氏・伊東氏・二階堂氏・泉田氏・相良氏など武家の名族を数多く輩出した。

 

 

房前

讃州志度道場縁起(第二幅)のあらすじ
唐の国使(将軍か)は着いたが、珠は龍王に奪われたことを不比等は知らされた。唐使とともに、不比等は珠の奪われた海に来たが、そこが志度の浦であった。
不比等はそのまま志度の浜(房前の浦)に残り、息の長い海人の娘を見つけて結婚した。三年がたって、二人のあいだには男の子も生まれた。
不比等は妻に、ようやく身分を打ち明け、唐の皇帝から贈られた珠のことを話した。海深くに潜っていって何とか珠を取り返すことができないだろうかと尋ねた。海女は、不比等との契りの深さを思い、珠を取り返しに行くことを承知した。あいだに生まれた子の房前を藤原の跡継ぎにすることと自分の菩提を弔うことを願った

 

 

 

須賀川 =古代からこの地が東北地方の要衝

=阿武隈川にかかる滝=始まりの水際=海神で花は桜の神阿多都姫(コノハナサクヤヒメ)

=藤原南家=弟房前の邸宅に対し南に位置=房前を祖とする藤原北家に押されて振るわなかった

 

 

 

 

 

 

風流(ふうりゅう、ふりゅう)

上品な趣があること。みやびやかなこと。また、そのさま。風雅。
世俗から離れて、詩歌・書画など趣味の道に遊ぶこと。「風流を解する」
美しく飾ること。数奇をこらすこと。また、そのさま。
「風流韻事」の略。
 先人ののこしたよい流儀。遺風。
[類語]風雅・雅趣・雅致・閑雅

 

 

風流=上品な趣があること=世俗から離れて趣味の道に遊ぶこと=美しく飾る

 

 

(うい)
最初。初め。

 

 

 

 

 

奥(おく)とは

 

入り口・表から中のほうへ深く入った所
家屋の、入り口から内へ深く入った所。家族が起居する部屋。また、奥座敷。
江戸時代、将軍・大名などの城館で、妻妾さいしょうの住む所。
表面に現れない深い所。内部。
心の底。内奥。
容易には知りえない深い意味。物事の神髄までの距離
芸や学問などの極致として会得されるもの。奥義。秘奥。
行く末。将来。
物事の終わりのほう。特に、書物・手紙・巻物などの末尾。
身分の高い人が自分の妻をいう語。また、貴人の妻の敬称。奥方。夫人。→奥さん →奥様

 

 

大奥(おおおく)は、江戸城に存在した将軍家の家族いわゆる夫人やその世子及び子女と生活のお手伝いをする奥女中の住まう奥向きの御殿や居所。一概に言えば将軍家の後宮と同義の意味である。

武家の邸宅において、儀礼や政治の場である「表」と日常生活の場である「奥」との区分は近世以前より存在していた。しかし大奥という呼称は江戸城に初めから存在していた訳ではない。元和4年(1618年)の「壁書」や元和9年(1623年)の「御台所法度」では、「奥方」や「奥」といった呼称が用いられている。

 

 

 

「陸奥」の名称と由来
「記」には「道奥」とあり、「紀」は「陸奥」が多いが古い時代に「道奥」もみられ、ともに「道奥」を「みちのおく」と訓じる。

「和名抄」は「陸奥」を「みちのおく」とする。

「道」は古い時代には「国」と同義に使われており、「道奥」の語源は都からみて遠い奥」にある国の意

「道」を「陸」にかえた積極的理由はわからないが、常陸国の場合と同じく、「陸道」の意であてたものであろう。平安時代の和歌で「陸奥」は「みちのく」として詠まれていた。「みちのく」は「みちのおく」が訛って縮まったものである。

「みちのく」が「むつ」に変わった事情には、江戸時代から二説ある。一つは陸が六の大字として用いられることをふまえて、陸を六と書き、それに訓読みをあてて「むつ」にしたというもので、本居宣長が「古事記伝」で唱えた。

陸州は古代・中世によく使われた略し方で、「六奥国」「六奥守」「六国」という書き方も平安時代にはあった。

もう一つは「みちのく」が「みちのくに」になり、「むつのくに」に転訛したという説で、保田光則「新撰陸奥風土記」にある。「みちのくに」は「伊勢物語」などに見える。

 

 

 

 

奥=入り口・表から中のほうへ深く入った所=家族が起居する部屋=妻妾の住む所

=表面に現れない深い所=心の底=容易には知りえない深い意味=物事の神髄までの距離=行く末=貴人の妻の敬称

 

 

「陸奥」の名称と由来
「記」には「道奥」とあり、「紀」は「陸奥」が多いが古い時代に「道奥」もみられ、ともに「道奥」を「みちのおく」と訓じる。

「和名抄」は「陸奥」を「みちのおく」とする。

「道」は古い時代には「国」と同義に使われており、「道奥」の語源は都からみて遠い奥」にある国の意

「道」を「陸」にかえた積極的理由はわからないが、常陸国の場合と同じく、「陸道」の意であてたものであろう。平安時代の和歌で「陸奥」は「みちのく」として詠まれていた。「みちのく」は「みちのおく」が訛って縮まったものである。

「みちのく」が「むつ」に変わった事情には、江戸時代から二説ある。一つは陸が六の大字として用いられることをふまえて、陸を六と書き、それに訓読みをあてて「むつ」にしたというもので、本居宣長が「古事記伝」で唱えた。

陸州は古代・中世によく使われた略し方で、「六奥国」「六奥守」「六国」という書き方も平安時代にはあった。

もう一つは「みちのく」が「みちのくに」になり、「むつのくに」に転訛したという説で、保田光則「新撰陸奥風土記」にある。「みちのくに」は「伊勢物語」などに見える。

 

 

 

 

 陸奥=「道奥」=「みちのおく」=「和名抄」「陸奥」

=「都からみて遠い奥」にある国

「みちのく」=「みちのおく」

陸=六=「むつ」

陸州は古代・中世によく使われた略し方で、「六奥国」「六奥守」「六国」

「道」=「国」

 

陸奥=道奥=みちのおく=都からみて遠い奥にある国=みちのく=六奥国=六奥守=六国

 

 

うた=歌=

「うった(訴)ふ」であり、歌うという行為には相手に伝えるべき内容(歌詞)の存在を前提としている。

「うた」の語源として、言霊(言葉そのものがもつ霊力)によって相手の魂に対し激しく強い揺さぶりを与えるという意味の「打つ」からきたものとする見解がある。

 

和歌(わか)とは、短歌型式の古典詩。古典短歌。広義には「万葉集」に所収される歌体の総称。
「和歌」の訓は「やまとうた」である。「和」の代わりに「倭」の字が、「歌」の代わりに「謌」「哥」の字が宛てられることもある。なお、歌謡と混同されるおそれがない文脈においては「歌」「うた」と表記され、呼ばれることもある。
長連歌、俳諧、俳句、狂歌、川柳風狂句は、一般には和歌には含めない。

和歌は、素盞嗚尊が以下の歌を詠んだのがはじまりという伝説がある。
「やくもたつ いづもやへがき つまごみに やへがきつくる そのやへがきを」

 

 

 

 

須賀川   

「風流の初や奥の田植うた」(by芭蕉)

(ふうりゅうの はじめやおくの たうえうた)

 

風流=上品な趣があること=世俗から離れて趣味の道に遊ぶこと=美しく飾る

初(うい)=最初。初め。

奥=表面に現れない深い所=心の底=容易には知りえない深い意味=物事の神髄までの距離=行く末=貴人の妻の敬称

陸奥=道奥=みちのおく=都からみて遠い奥にある国=みちのく=六奥国=六奥守=六国

 

 

 

が伝えたいこととは!

 

 

 

 

「世俗から離れ美しく飾る最初 

心の真髄、神阿多都比売

先祖山神神事の言霊」

 

 

 

 

イの国~東北への細道は、あり〼!真顔 

 

 

「腹がたつ いつもわるがき 杖ごみに わるがきつくる そのわるがきを」

イ座 おいぼれが、みちのおくへ

by隊長

 

 

妄想に妄想を重ねてますな。

 

 

 

けつねうろん妄想ジャンカー イの国探検隊日月ホトトギスがお伝えしました。

ではまたセキセイインコ青