芸術ウソつかない   横尾忠則  対談集 | やるせない読書日記

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 大昔、高校の頃、オオカネ君という友達が志木にいた。彼は僕のうちより金持ちで小遣いも


潤沢にもらっていて、ほとんど読まないが本を買うのが好きだった。植草甚一とか寺山修司


とか、横尾忠則の本とか買っていて、そこで確か横尾の「一米七十糎のブルース」という作品


があってこれを彼に借りてよんだのを覚えている。横尾の本の中で一番面白かった。(ちなみに


今、アマゾンで検索したらあったので早速購入した。)まあ、昔から横尾忠則は絵画、イラストだ


けではなく文筆にも才能を示していたのだ。


 週刊文春の文庫紹介コラムで横尾忠則がピカソ批判をしてるというので購入。でもまあ、大した


批判でもあんでもなかった。中沢俊一とか河合隼男とか定番の瀬戸内寂聴とかそこら辺との対談。


吉本ばななとの対談はあの女大嫌いなので読まず。鶴見俊介もまだ生きてたのこの人つう感じで


読まなかった。


 岡本太郎と違って横尾の云うことって滅茶苦茶でまたかいなという感じで読んだが、肩のこらない


時間つぶしにはなる。確か横尾はピカソに啓示を受けて画家になったんだが、今はピカソを否定し


ている。まあ、こんな理由。


 ピカソみたいな、あんな自我意識だけでガーンと描いた作品が、果たして二十一世紀になって持ちこ


たえるかどうか。むしろ個の表現に徹したアンリ・ルソーみたいなものが、二十一世紀的な美意識、


芸術として評価されるかもしれない。 「福田和也が」尋ねるピカソは二一世紀に残らない」


 まあ、この場合の「個」って西欧的な自我意識から超越したというか、何つうか簡単に力まないとか


そんな事じゃないですかね。あんまり本気になって読まなかったから良く分からんですが。


 中沢俊一との対談でも「個人」と「個」について珍妙な理論を開陳してる。


中沢ーー(略)いままで「個人」の嵐のようなエゴをキャンパスにぶつけてきたわけだけど、「個」


になったときにどう変わっていくのかな。


横尾  つまり想像力も自我も否定して、想念に振り回されない・・・・・そういう状態、インド芸術ですよ。


ありきたりというか、想定内というか。この対談で、中沢もピカソをくそみそにこきお下ろしている。三十年


くらい前、ピカソって無茶苦茶、評価されていて二十世紀の絵画の王者は間違いなくピカソだった。多分


評価されすぎた反動が今になってきているのだと思う。僕もピカソの晩年の絵を見に行って、全ての


テクニックを捨てて子供のように描くとかいうテーゼを標榜していたが、何か物凄い我慾を感じて「こ


んな子供いねえぜ」と思ったことがある。


 河合隼男との対談では河合が得意の無意識がどーのこーので、ああまたかいなであったし、横尾が


大家になってしまいみんな横尾忠則をもちあげること甚だしい。とくに河合のヨイショがすごい。ビート


たけしや娘、横尾美々との対談なんてなんら得るものなし。ただ井上陽水とビートルズについて語り


あっているところは面白いし、唐十郎との六十年代話も面白い。


 前にも書いたけど、横尾忠則って画家としては過大評価されすぎているんじゃないだろうか。ピカソの


我慾ももの凄いが、後世にはそんなものは消去されて絵画の美つまりテクニックしか残らないのではな


いだろうか。横尾とピカソのテクニックを比べればそりゃピカソの方が上だし、横尾よりも百年以上も前の


ポップアーチストである浮世絵師だって、福田和也が横尾にヨイショしてむりやり「個」の画家にした、狩野


派の職人だって横尾よりはテクニックがあった。


 僕もかの原美術館で「Y字路」のシリーズをみたことがあるが、素人の感想なんですが色が汚いんじゃな


いかと思ったけど。誰でも思いつく陳腐な意見だけど、横尾忠則のバリューって未だに既成のテクニックが


あって物語性もない写実的な「絵画」のアンチテーゼとして成り立っているのでは。そうでもないですかね。


 福田   (略)たとえば一九世紀に(エルネスト・)メソニエ(一八一五~九一  フランスの画家。写実的な


  歴史・戦争画で知られる)が巨匠だったというのは、我々には全然ピンとこないですからね。その時代に


  一番もてはやされたものが、残らない。それは充分あり得ることですね。


横尾忠則は今の時代、一番もてはやされているよね。


とはいうもの僕は横尾忠則のイラストが嫌いではないですが。