本書は1988年から1992年まで『流行通信HOMME』に連載した横尾忠則(1936~ )の1960年から
1984年までの自伝。横尾自身が言っているように文章はあまりうまくないが内容はすごく面白い。60年
代から80年代半ばまでの絢爛たる地獄めぐりとも言える。
80年にピカソの展覧会で啓示を受けてから横尾は画家に転進した。僕のような下々の者にはイラシトレーター
の時の横尾と画家である現在とどのような差があるか良く分らない。どっちも絵が下手くそじゃんとか思ってし
まうのだが。定かな記憶ではないが90年ごろ西武美術館で横尾の油絵の展覧会を見にいったことがある。
みんななんですかーこれはーつう絵で別にシルクスクリーンで製作したイラストとモチーフはさして変わらない
ように思えた。キャンバスから石膏でできた腕が突き出ている絵があったが、如何にもという絵だったし、7~
8年前、原美術館でも個展を見たけど色があんまり美しくなかった。ウォーホルと横尾は良く似ていて二人と
も絵のテクニックなんてない。であるがオーソドックスな技術に裏打ちされた絵画のアンチテーゼとしてポップ
アートは存在しえたのだ。(誰でもこんなこと言いますが)テーマから言えば二人とも死に深く拘泥している処
が良く似ている。ウォホールはゲイの硬質な頽廃した死のイメージだが横尾の死は土俗的で土の臭いがする。
アンディ・ウォーホルは死後の静謐で横尾のイラストは死への怖れかもしれない。
繰り返して言えば二人とも絵が下手でだからシルクスクリーン、写真などを用いたのだと思う。だから僕は横尾
の画家への転進というのが良く分らない。お前見たいな素人にお芸術がわかるのかと言われれば、そのとおり
ですが。でも展覧会二つとも自腹切っているんだから感想くらいは自由に言わせてもらいたい。
この自伝は横尾忠則が1960年、23歳で上京してから1984年、47歳までの約四半世紀に及んでいて頁数が多く
読むのはさほどでもなかったが、まとめるのに苦労した。まず時系列にそってこの自伝をおって見よう。
挫折もせず時流に外れることのなかった旺盛で幸せな横尾忠則の芸術活動を覗うことができる。
1960年 23歳。
興奮と狂乱。そして祝祭的なあの「伝説的の一九六〇年代」に突入した七十時間後の一月
四日、新婚二年目のぼくと妻は、神戸をあとに上京した。一年前に入った大阪の広告デザイン
会社ナショナル宣伝研究所が、会社ごと東京に移転することになったからだ。
妻と渋谷の便所くさいアパートに住む。一月でナショナル宣伝研究所を辞める。グンゼの仕事など。
四月に脳溢血で父親(養父)が死亡。父の死に妙に陶酔する。六月、日本デザインセンターに入社。
同社には宇野亜喜良が在籍。
1961年 24歳
四月長男誕生。大和証券、京都労音、藤原歌劇団などの仕事。市松模様のデザインを生み出す。
当時隆盛したモダニズムに反してミルトン・グレイザー、シーモア・クアスト、ポール・ディビスらのレト
ロ感覚に惹かれる。ぼくは彼らのイラストから信じられないような霊感を受けた。それはイラストが文章
や広告の従属から解放され、それ自体が絵画のように自立することが可能であるということを教えられ
たからである。
1962年 25歳
朝日麦酒のセクションに移る。クライアントを殴打。奇妙な夢を頻繁に見るようになる
「金閣寺」を読み三島由紀夫に霊的な次元で感応し、「薔薇荊」のデザインを希望するがまだ無名の横尾は相手
にされず。細江英公から寺山修司を紹介される。草月アートセンターで現代音楽、ジャズ、海外の舞踏、ハプニ
ング、アニメーション、アンダーグラウンド・シネマなどのアクティブな前衛芸術を体験する。アラン=ロブ・グリエ、
三島由紀夫、澁澤龍彦、サド、バタイユ、ユイスマンなど読む。赤瀬川源平らのハイ・レッド・センターの活動を
知る。
1964年 27歳
日本デザインセンターを辞める。フリーランスになる。京都労音のポスターに苦情。長女生まれる。
東京オリンピック期間中に和田誠とヨーロッパ旅行。「デザイン」「美術手帳」から創作デザインの依頼。
アニメーションを製作。有名な海軍旗のような朝日がイラストのバックに登場する。母親(養母)がすい臓癌で
入院。
1965年 28歳
展覧会に三島由紀夫を招待し知遇を得る。三島が気に入った作品を進呈。土方巽の公演ポスター製作。
ビートルズにも惹かれる。気鋭のイラストレーター11人参加の「ペルソナ展」に出品。
ポスター「TADANORI YOKOO」製作。母親が癌で死亡。
1966年 29歳
二月に「話の特集」に参加。「週刊女性」に三島由紀夫連載のエッセィにイラストの仕事。収入が増える。
成城に転居。南天子画廊で個展。
1967年 30歳
状況劇場「腰巻お仙」ポスター。テレビ「ヤング720」レギュラー出演。寺山修司、東由多加と天井桟敷結成。
九月から二十日間、ニューヨークに旅行。一柳慧と知り合う。サイケデリックに触れる。アンディ・ウォーホル、
ジャスパー・ジョーンズと会う。
1968年 31歳
ニューヨーク近代美術館「ワード&イメージ展」に出品。ミルトン・グレイザー、ピーター・マックスと知り合う。
ニューヨークでサイケデリックを体験。ヘンリー・ミラーに会い卓球をする。ドラッグ体験。
「横尾忠則遺作集」発刊。高倉健に会う。「サイケ」「アングラ」「イラスト」の教祖と呼ばれる。「新宿泥棒日記」
主演。天井桟敷退団。状況劇場ポスター「由比正雪」「続ジョン・シルバー」
1969年 32歳
三島由紀夫原作、歌舞伎「椿説弓張月」ポスター。映画タイトル製作「日本セックス猟奇地帯」「黒薔薇の館」
第六回パリ青年ビエンナーレ展入賞。テレビ「新・平四郎危機一発」出演。母の幽霊に会う。ジョン・レノン提唱
の「WAR IS OVER」コンサートに出演。朝日ジャーナルに佐藤栄作を揶揄した表紙を製作。万博、せんい館
のプロヂュース
1970年 33歳
引き続き万博の仕事。1月下旬、交通事故。虎門病院に入院、入院中に幽体離脱を体験。二ヶ月で退院後、
休業宣言。「休業」は約二年続く。展覧会「横尾忠則全集展」一週間で七万人集める。「少年マガジン」の表紙
製作。細江英公の勧めにより写真を撮る。イギリス旅行。UFOの夢を見てUFOに取り付かれる。「辺境」に井上
光晴の勧めで小説執筆。右足が痛み歩けなくなる。11月25日三島事件。
1971年 34歳
1月、部屋の中に着陸したUHOから宇宙人が三人降りてくる夢を見る。ワシントン大学に招聘される。ニューヨーク
滞在。現実的な世界を離れ精神世界により惹かれる。深沢七郎「夢屋」の包装紙を作る。タヒチへ旅行。
パリへ旅行。アラン=ロブ・グリエ、ピエール・ド・マンディアグル、ボナ・マンディアグルに会う。パリで幻覚を体験。
ニューヨークでオノ・ヨーコとジョン・レノンに会う。一緒にテレビ出演もする。
1972年 35歳
ニューヨーク近代美術館でピカソ、マチスと共に展覧会。横尾のみ4ヶ月のロング開催になる。
二年間の休業明ける。
これから1984年までの日記は同じような調子で続く、旺盛に仕事をして海外に行き、UHOやお化けを見るのだが
書き写すのが疲れたので、感想でも述べよう。横尾は不遇の時代がなかった芸術家だ。1960年23歳でデザイン
会社の社員として東京に上京してわずか12年後の35歳でニューヨーク近代美術館でピカソ、マチスとともに個展
を開くのである。これはやはり大したものであると思う。大してテクニックもない横尾がここまできたのはまず横尾の
持っている表現の原資というかモチベーションが人間を魅惑するものであることだ。それは死への畏れである。横尾
自身で述べてある箇所が見つけられないが、死が怖いから死を描き恐怖をそらしたいというようなことが書いてあった。
横尾の死のイメージは父は棺桶のなかで白い経帷子をまとい、鼻と口に耳の穴に綿をつめ、幽霊みたいに三角巾
を頭の巻いて、草鞋をはいていた。死後急に伸びたのだろう、髭と手足の爪がやたら長かった。硬くて冷たい父の
体はまるで蝋人形のようで、妙な重量感をもっているように思えた。というグロテスクで土俗的なものである。
僕は「朝日ジャーナル」の佐藤首相が黒い服を着て確か赤いネクタイでお灸についていた人体図のような下手
な筆致で笑っている顔で描かれていた表紙の絵を見たことがある。ベタ塗りされた黒が死のように不気味で、佐藤
栄作がしゃべっている台詞が書き込まれていた。一応、当時の「朝日ジャーナル」は新左翼支持の雑誌だったが、
このイラストはそんな微温的なイデオロギーなど虚仮にしているほど、不気味で不真面目だった。
横尾は人間の最終的な問題をカードにもっているいから勝ち抜いていけたのだ。
日記を読めばわかるが、横尾は自分の作品に自負はあるが高慢にはなっていない、これほど有名になり才能もあるが
謙虚な人柄である。(癇癪を破裂させることはしばしばだが)こういう人柄が狂気や世間的な軋轢に耐え表現活動をもの
にしてきたのだと思う。では後半をざっとまとめてみよう。
作風としては、土俗的なものが「ロータスの伝説」のように洗練が加わるようになる。相変わらず売れっ子で日本、欧米
ともに仕事がとぎれない。疾病の境界域ともいえる幻覚、幽霊との遭遇、奇妙な夢、UHOなどに代表される「精神世界」へ
の傾倒は続き、インドに四回行き、座禅にのめり込み、細野晴臣にYMO結成に誘われるが結成発表直前に脱退。
執筆も旺盛で「インドへ」「UFO革命」小説「光る女」など上梓。初代貴乃花の化粧まわしをデザイン、リッツ台北ホテル
のアラブ・レストランのデザイン。等々天馬空を行くような仕事をして1980年に風呂場で転倒。大怪我。ニューヨクの
近代美術館でのピカソ展を見て画家になる決心をする。ただ彼が自己の想いや感情に忠実に従っているというその
無垢な正直さに、ぼくは自分の欺瞞性というか心のガードの堅さをいやというほど見せつけられ、同時にいいようの
ない解放感に恍惚とし二時間、ピカソを観たあと「画家」になったのである。横尾でも自由でなかったのは驚きで、
傍からみると大して変わらないようだが、商業的制約が表現におよばない自由な画家に転身。モーリス・ベシャール
の舞台「ディオニソス」の舞台美術。リサ・ライオンとのコラボなどの活動を経て多忙な芸術家の自伝も1984年の
雑誌の休刊で終わる。雑誌が休刊にならなかったらズラズラと怖ろしいエネルギーで日記を書き続けたことであろう。
この日記で驚くべきところは横尾が夥しい数の有名人と会っていることだ。日本人では三島由紀夫、寺山修司、土方巽
唐十郎、澁澤龍彦、森茉莉、瀬戸内寂聴等々であるが、外国の芸術家や著名人にこれほどあっている人はいない
のではないだろうか。
ミルトン・グレイザー、ピーター・マックス、アンディ・ウーオホル、ジャスパー・ジョーンズ、ジョン・ネイスン(三島の翻訳家)
ヘンリー・ミラー、トム・ウェッセルマン、ソール・スタインバーグ、ジョン・レノン、オノ・ヨーコ、カルロス・サンタナ、イサム・ノ
グチ、アラン=ロブ・グリエ、ピエール・ド・マンディアグル、モーリス・ベジャール、サルバードール・ダリ、ジェーン・フォン
ダ等々である。それにロンドンでジョージ・ハリソンを見かけ、1968年にニューヨークでクリームを見ている。おそらくあの
頃のクリームを見たのは日本人では横尾忠則だけである。ヘンリー・ミラーとピンポンをして、サンタナと友だちでジョン・
レノンとテレビに出て、ダリに会った人間なんてそうはいない。
この本を読んでいて、疲れたのは横尾の統合失調症に行っちゃっているんじゃないかと思えるような、UFO、奇妙な夢、
幻覚、幽体離脱、幽霊を見た体験などがまともに語られることだ。
母が死んで四年が経っていた。母の声を聴いて数ヶ月経った頃だ。朝ふと目を醒ました。カーテンの隙間から
朝の陽光が部屋の中に差している。ぼくはぼやーとしながら足元の本棚に並んでいる本の背表紙をなんとな
く眺めていたが、その時突然金縛りが襲ってきた。と同時に誰もいないはずの僕のベッドにぼくと並ぶようにして
死んだ母が寝ていた。目を閉じたままの母の横顔がまるで顔をくっつけて見ているほどくっきり見えた。
サクレクール寺院が見えるホテルの部屋でぼくは昼食のことを考えながらボヤーッと外をうつ伏せになったまま
眺めていた。すると突然ベッドカバーが畳に変わった他のものは全てそのままで窓の外はサクレクール寺院の
塔が見えていた。突然、ぼくは人間の姿ではなく着物になってしまった。茶色の縞柄の男物の着物できれいに
畳んだまま畳の上に置かれていた。そしてそれが自分自身であることも知覚できた。
という事らしいが、何とも言い様がない。夢となるともの凄くて死んだ両親やUFOが頻繁に出てくる。どうも横尾の
場合は奇妙な幻視、夢などが表現と不可分のもになっている。であるが第三者には非常に分りかねる経験だ。
ネットで横尾忠則の写真を見たがとても70歳を超えているようには見えない。表現する者は常に若いのかもし
れない。今でも宇宙人がどうとか幽体離脱を体験したりしているのだろうか。幸せな芸術家であると思う。
面白いが後で感想を書くのには適さない本だ。感想書くのが大変だった。