三島由紀夫に「日曜日」という短編があって何十年も前、新潮社の文庫本
で読んだ。僕の記憶によると二十歳前後の会社勤めの若いカップルがいて
(三島独特のきれいな人形のような少年と少女だ)二人は日曜日ごとにデー
トを重ねている。どういう理由か分らないが二人はハイキングに行き魔法瓶に
入っている毒を飲み自殺をしてしまう。ハイキングの場所は深い深い森の奥だった。
季節は美しい初夏の頃で最後は主のいない二つの机が部署に残され上司が亡くなっ
た二人を思い詠嘆する。晩春の午前中の静かな言い知れぬ寂しさが作品のイメージ
としてあった。
今回読み直して大分内容を違えて理解しているのがわかった。澁澤龍彦のよう
な明晰な頭ではないのでそれはしょうがないが。何十年前のでただ一回読んだだけ
の小説なんて正確に内容なんて覚えているはずもない。
「日曜日」は、中央公論の昭和二十五年七月号に掲載された短編。三島は二十五歳
で三島は代表作の一つである「仮面の告白」を二十四歳で書き上げ確固たる作家に向
かって歩みはじめた時期の作品。
幸男と秀子は財務省金融局に勤めている。ともに二十歳。机を向かい合わせに坐ってい
る二人は恋人同士。いわゆるステディ(こんな言葉は死語か)である二人は勤勉に二人の
愛を育てるために日曜日ごとの逢瀬(おお!なんと古典的な響きだろう)を重ねる。
幸男の手帳の日曜日は暗号のように幾つかの色で塗られている。
「これはね、秀子とすごす日曜日の予定なんです。緑は山や林や野原、藍いろは
海や湖、薄茶いろは、これはグラウンドの土のいろですよ、つまり野球」
「黒は?」
「あててごらんなさい。わからない?黒は映画です」
二人は三月さきまでの予定をいつも立てており、それを忠実に
実行していた。
「雨が降ったり、電車のストライキがあったりしたら、
どうするの?」
「雨が降ったて、ストライキがあったって、黒は黒、緑は緑です。
僕たち、そりゃあ頑固なんですよ。傘をさして雨の日の多摩川堤
を歩いたりするんです」
こ の生真面目な恋愛の進行には三島の几帳面な性格が投影され
ているように思われる。二人は1950年4月16日の日曜日
(今から56年前は今年と曜日が同じだ。)手帳は藍いろに塗られてい
て海か湖にハイキングに行く日だ。日本語があるかぎり永遠に残るだろ
う二人のデートのファションは以下のとおりだ。
日曜日の朝、二十歳の恋人同士は、某駅のプラットホームで待ち
合わせた。七時半である。
お天気は快晴というわけには行かない。しかし雨にはなるまいという
予報である。
二人はものの五分と約束の時間をたがえなかった。幸男は紺のズボン
に茶いろのスウェー ターを着ている。Yシャツは白くて、糊がよく利いて
いる。秀子はロングスカートをもっていない。
格子のスカートに水いろのカーディガンを羽織っている。子供のような大柄
のソックッスを穿いて いる。二人とも肩から水筒を提げ、簡素なボストン
バッグを手に持っている。靴はいづれも白い運動靴である。
水筒を肩から提げた恋人たちは電車から汽車に乗り換えS湖の湖畔の駅に
到着する。湖に行く途中で二人は接吻をして美しい自然の中で二人の愛情は
きっと永遠に続くことを確信する。日曜日は四時になりハイキングを終えた
二人は駅頭にいる。
四時七分に臨時列車が構内に入って来た。ホームに入るか入らぬ
内に参事が起こった。少し はやすぎた群衆の動揺が、最前列の二人を
前へのめらせたのである。(略)腕を組んでいたので 一人で死ぬことは
困難であった。幸男が転落し、斜めに秀子が引きずられて落ちた。ここでも
また 何らかの恩寵が作用して、列車の車輪は、うまく並べられて二人の頸
を正確に轢いた。ここで参事 におどろいて車輪が後退をはじめると、恋人
同士の首は砂利の上にきれいに並んでいた。みんなはこの手品に感服し、運転
手のふしぎな腕前を賛美したい気持ちになった。
普通、首が跳んでしまうことに愛着を感じる人はいないだろう。美しい水彩画のような小説だがさす
がにここの箇所だけはすんなりと受けいることは生理的にむつかしい。恋人達が死ぬのは覚えて
いたがこんな凄惨なラストだとは思っていなかった。主人公たちの首が切断されてしまう話は僕が
しるかぎりはもう一つあって「翼」という短編だ。これは戦時下の従妹同士の甘美な恋愛が空襲によ
り少女が死んでしまうことにより終わる。
友人三人と、葉子はいつもの折目正しいスカートと半袖の
セーラア服で、都心に近い駅を出て 来たとき、たまたま惣卒
の警報が鳴った。友人三人はすぐさま近くの壕へとびこんだ。
葉子は 何故か遅れて迷っていた。友だちは壕にひびく爆音の
なかから葉子の名を呼んだ。ようやく姿をあらわした彼女が、も
う誰一人のこっていない明るい閑散な街路を横切って、まっすぐ
街路にとびこもうとしたとき、あと二十米ばかりのところで爆弾
の衝撃を後ろからうけた。 葉子の首は喪われていた。首のない少
女は地にひざまづいたまま、ふしぎな力に支えられて倒れなかった。
ただ双の白い腕を、何度か翼のようにはげしく上下に羽ばたかせた。
二つの小品とも主人公たちの首が喪われることで小説としてなりたっ
ている。むしろ小説はアリバイで首を切断されるマゾヒステックな衝動
を発露したかったのかもしれない。日曜日の恋人達のように三島の首は東京
に冬が始まったある日、市谷の自衛隊でとんでもない椿事が沈静したあと静かに
日差しが篭っている部屋に転がっていた。「作家は作品の結果である」
という箴言にあてはまるかもしれない。