結局わからないもんだね | 自分に正直に生きていこう

自分に正直に生きていこう

紆余曲折ありましたが、バレエの講師をしています。
日々感じたことをカッコつけず正直に、日記として残そうと思って書いているブログです。



メンデルスゾーン 無言歌集から
「甘い思い出」他

バックミュージックにどうぞ〜





5/5 金曜日  日記


やっと何も予定の無い一日になった


とは言っても旦那は自分の実家へ行きお墓の掃除と家の周りの植木の伐採、あっちの方が安いワンコのもののお買い物などやってるので、

まさか私が家で洗濯炊事以外ずっとゴロゴロも出来ず、結局表の植木の整え程度と、裏のセイヨウイボタノキのアーチ部分を整えるくらいはした




写真じゃよく分からないけどアーチにしてるのよ









チューリップチューリップチューリップチューリップチューリップ


5/6  土曜日 日記


朝イチから歯医者に行った

じつは次女たちがやってきた晩 、家の階段で転んで右の前歯がポッキリ半分折れてしまった

痛いよりも何よりも情けなくてえーん

恥ずかしくて




三女は高校時代の親友に会いに出かけ、旦那もインド映画「RRR」観に行っちゃって

1人家でのんびりしていた





午後から雨が降ってきた


雨で何となく薄暗くて

1人ひっそり家に居たら、色々考えてしまうんだよね雨雨雨



例えば、父の誤嚥性肺炎のこと


父、自宅で母の介助の元食事をしていた


けっこう好き嫌いが出てきてたようで、(食べにくいとか味が嫌だとか)母も試行錯誤していたけど、やっぱり噎せる事も度々あった


もしきちんとした高齢者施設に居たら 誤嚥しなかっただろうか?

もう少し長生きできただろうか?


それになぜ病院で家族の居ない時にいってしまったんだろう




父 、1月の終わりに行ったショートステイ嫌だったらしい

施設の人がっていうのでなく、家が良いんだなって事

退院しても施設に行かされたらかなわん。って思ったのかな




去年退院して1年と1ヶ月

大好きな母がずっと寄り添ってくれて幸せだったと思う

結構ハードなリハビリの日だった気もするんだけどあせる


早朝散歩、階段まで登って降りて、スーパーにもドラッグストアにも一緒に、

デイサービスは休んだのは熱の出た1、2回だけ


真面目で頑張り屋な父らしい




スキーが趣味で、冬は母も付き添って毎週のように日帰りスキー

カナダにも2度1人でツアーに参加


春〜秋は山登り

若い頃はアイゼンつけてピッケルも持ってシェラフ背負って登山をしてた、退職後は早朝にハイキング程度の山歩きが日課だった

雨が降っても行くと言って母が反対してもヤッケ着て行ってた


夏のカヤックは遂に自分でも購入して、フューシャ色のハデなカヤックをよく円山川で楽しんでいた





子供の頃、よく長距離日帰りドライブに連れていってくれた

休日が日曜日だけだった時代に

まだ高速道路が無い道もなんのその

それこそ4時に出発で、富山のチューリップ園や乗鞍まで行ったり驚き超ハード


トンネル内でガソリンが切れた時は週刊誌丸めて積んでたポリタンクから入れたりガーン

雪道で金属チェーン巻いててもスタックした時は毛布を敷いて切り抜け


なにか困った時、普通は、ということを忘れて頭を使って何とか切り抜けるということを両親を見て学んだ




旅行と言えば、夏休み広島の母の里から親戚を皆乗せてマイクロバスを1人で運転してくれて日本海に泳ぎに行ったり、山の景色の良いところに連れて行ってくれたりしてくれた

今でもそんな思い出は色褪せない




お葬式の時、会社のまだ現役の70代の職人さんたちが、どうしても常務のお葬式には行かせて欲しいと懇願された。と現社長(従兄弟)が言っていた


50年以上前、工場がまだ今より小さかった頃

中学卒業で汽車に乗って集団就職した人達が大勢いた

彼らを駅で迎えて寮に住まわせ、親代わりに何かと面倒を見てきて、盆と正月は長めに休ませ田舎に帰る彼らに土産まで持たせ、

そのうち社内結婚した人たちも沢山出てきて、社宅に住んだり家族が出来て家を建てたり、職場だけでなくずっと人生を共にしてきた


そんな彼らがせめてお葬式だけほんの少し最後にお顔を拝見したい。と言ってきたのだ

私はそんな人達なら家族葬と言っても来ていただいたらいいのに。と言ったけど通らなかった


それは、もっと父と同世代で共に戦ってきた仲間が居るけどもうそんな彼らは気軽に外出出来る体ではない、だからそんな先輩を差し置いては良くないんじゃない?という意見も出てきたから




父は少し前から食事の量が減っていた

入院の前の日は朝からお粥以外はほとんど口にしなかったらしい

心臓が元々悪かったし



父はきっと、母が怖がらないように家では逝かず


母が怖がらないように最後の時を見せずに1人で逝ったんだと思う



優しい父らしい最後だったんだなあと思う