こんばんは。なのか、こんにちはなのか。
今日もコロナ療養、ねても覚めてもコロナ療養。
明日から少しずつ社会に復帰していく我が家。
この10日あまりの膨大な時間の中で、なにか得たものがあるかというと、こう答えよう「過去への執着とまだ見ぬ未来への不安からの脱却」とでも。
9月に入って、私は日常のさまざまなシーンでふと、過去の自分とその時の情景が、突然現れたスクリーンに映し出されカタカタと上映される、どこで何をしていても所構わずそのスクリーンが現れたかと思うと、より好みこそしていない昔の私の見窄らしい姿を大音量で上映する、といった摩訶不思議な現象が続いていた。
「何かやり残したことがあるのだろうか」
「過去の感情やトラウマには寄り添って浄化してきたつもりでいたのに」
「会いたくない顔が何人も浮かぶのはなぜなの?」
スクリーンがでてきても見て見ぬふりをし続けた。
そのうち、夢までも信憑性を増してくるように過去から伸びる影は確実に私を捉えた。
心当たりは、あるっちゃある。
それは私の意識が見たくない方角に、自ら行くと決めたという出来事。
簡単にいうと、昔住んでいた地方(今も元夫家族)であるセミナーに参加するということ。
もう大丈夫だと思っていたが、その方角へ行くことをどこかで嫌だなーと感じていたのだ。
街中でもナンバープレートを確認しながら、なにかに怯えるように生きている自分がそこにいた。
首に鎖がついているように、過去は私を簡単には手放してはくれないようだった。
現実世界では、敏感な次男が謎の腸炎になり入院。
昔次男が入院中に元夫との嫌な、というか許せない事件が起きたことがあるからか更に敏感になる私。
重なっていく記憶と現実。
次第に怖くなっていく。
どうしてだろう。
ある時、過去を振り返っても微動だにしないくらい落ち着いて「過去は私にとって貴重な財産だった」と思えるときもあれば、またある時は今回のように逃げ場のない恐怖心に苛まれる。
過去とは存在しているのか?
過去とはいったいなんなのだろうか?
過ぎたことなのに、今に波のように寄せてはかえす、この現象はいったいなんなのだろうか?
誰が操作しているとしたら、それは紛れもない私自身だろう。
なにかがトリガーとなって、過去の記憶からそれらしいものを引っ張ってきて眼の前に並べて、まだ見ぬ未来のために経験済みのすでにあるパターンを準備しようとしたのだろう。
これはきっと自己防衛本能の一部だろう。
私はその、「行きたくないところに自ら赴こうとした」というトリガーから、現実を操作し、こうなったらこうなる、経験済みの感情を用いてその場をやり過ごそうとしたのだろう。
つまり、
「行きたくないところにいかなくてよかった」
いくら仕事とまではいかなくても、魂が行きたくないのシグナルをだしたときは行く必要などない、そもそも必要なんてものはない。
その行きたくないのトリガーから、先が不安になり不安だから、過去からパターンを引っ張ってくる。
なんて高度な技をつかっているんだろう。
もっと簡単でいい。
そもそもきっとトリガーさえ、なかった。
私は最近毎日に悩みがなく、たのしかったから、そろそろ大きな何かが起きるべきだと思っていたに違いない。
このパターンの悪夢は、こんなところまで侵食している。
山があり谷もある
いいことのあとには、悪いことがある
毎日ハッピーなんてありえない
本当にそうだろうか?
山がいいのか、谷がいいのかは善悪の判断はできないが、いいことがひたすらに続くと信じてはいけないのだろうか?
誰かがいうのだろう。そんな美味しい話はないだとか、人生を舐めるなとか、、
毎日ハッピーに暮らせたとしたら、それは罪なのか?
罪の意識が、たしかにここにある。
怖いくらいに、なにもしなくても、罪の意識が染み付いている。
この洗脳はやばい。
気づいただけでも、いいとするが、私は更に、ここから毎日ハッピーでいいという生き方を実践する。
いくら過去が襲ってきても、見えない未来の不安があったとしても、
どちらも、幻想である。
存在しないのだ。
全ては私の頭の中の、観念が見せている幻なのだ。
恐れることなどない、私の人生は私のものだ。
恐れを添えるかどうかも、自分で決めていい。
過去も未来も、存在しないのだ。
あるのは、
今、ここだけ!
思い出せ。
そして信じて疑うな。
P.✌️
