八戸市のお隣りの南部町の斗賀神社へ行って来ました。

 

 

青森県三戸郡南部町斗賀字上斗賀7
 
【御祭神】
 
伊邪那美尊
月読尊
猿田彦命
 
 
かつては神仏習合の霊場でしたが、
新源寺もしくは霊現堂(りょうげんどう・涼現堂)と称していました。
 
涼現堂は糠部三十三観音巡礼第16番札所でしたが、
明治初期の神仏分離により
斗賀神社と改称されており、
現在は第16番札所「斗賀観音」となっています。
 
 
 
 
 
 
(以下、ネットより引用)
 
斗賀神社の前身である「斗賀霊現堂」は
冷現・令現・良現・涼現とも書き、
斗賀観音ともいいました。
 
霊現堂縁起では
大同2年坂上田村麻呂の創建、
藤原有家を十一面観音として祀るとしていますが、
 
一説では正平年間の建立で、
はじめ天台宗、後に真言宗に改宗。
 
正平21年在銘の鰐口、鐘銘、仮面、毘沙門天像などがあります。
 
藩主の信仰も篤く、
承応2年4月に盛岡藩は
他の諸寺院とともに斗賀観音にも
初尾として米20俵を寄進し祈祷させています。
 
延宝7年八戸藩は冷現堂の普請にあたり、
ゆきたれ20枚、わらなわ1000尋、
くくなわ1000尋を遣わし、
同年4月に斗賀令現堂の普請奉行として
佐藤五郎右衛門が命じられ、
同年11月令現堂遷宮につき川口与十郎が藩主の代参を行っています。
 
享保5年5月には豊山寺・大工奉行奥寺嘉右衛門・御歩目付飯岡弥内・鍛冶権兵が遣わされ、
藩主寄贈の鐘堂供養を行っています。
 
享保9年には、
姫君の眼病立願として鰐口その他が奉納され、
同15年にも亀之助様疱疹全快祈願をしています。
 
幕府巡見使の廻国に当たっては、
享保5年・天明8年に巡見使無事安全通行の祈願を命じています。
 
御祭神は霊現堂縁起によりますと
讒言によって流刑に処されて亡くなったとする二条関白太政大臣藤原有家をあて、
八戸郷土誌では涼現堂は
北斗妙見菩薩の祭壇で霊符験示の故に霊験堂と呼ばれるとしています。
 
寛保4年の諸寺院寺号山号帳によりますと
高10石を給されています。
 
寛保3年の奥州南部糠部順礼次第全には
涼現堂十一面観音とあり、
糠部三十三観音の第16番札所となっています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
神社の左奥には、
南祖十和田神社へ続く道がありますが、
封鎖されていました。

この地は、

十和田湖青龍大権現になったとされる龍

「南祖坊」の誕生の地だそうです。

この地で育った南祖坊(なんそのぼう)は、
七崎(ならさき)の普賢院に行き、
やがて十和田湖に赴いて、
主の八郎太郎と戦って、
十和田湖の新しい主になったという伝説があります。

 

 

南祖坊は斗賀で生まれ、

大変賢い僧侶で、各地を修行したそうです。

 

 

「昔、鹿角の草木という場所に

八郎という力が強く心優しいマタギが住んでいた。

 

 ある日、仲間と共に3人で

八郎が山に猟へ出かけた時のこと。

 

その日の炊事当番だった八郎は

3匹のイワナを捕まえて焼いていたが、

 

あまりにも仲間の帰りが遅いので、

つい仲間の分までイワナを3匹とも食べてしまった。


すると八郎は異様に喉が渇き、

近くの川の水を飲んでいるうちに

8つの頭を持つ龍へと変身してしまった。

龍となり水から離れられなくなったことを理解した八郎は、帰ってきた仲間たちに謝罪と共に自身が竜になったことを告げ、

故郷の両親に詫びの言葉を告げてくれるよう頼むと山の上へと消えていった。

 山の上で八郎は周囲の川を堰き止め、

湖を作ってここに住むことにした。

 

そうしてできたのが十和田湖である。

 

 

 

 

 それから何年も経った頃、

十和田湖に南祖坊という僧侶が訪れた。


 南祖坊は

「自分は鉄のわらじの鼻緒の紐がちぎれた場所を棲家とするよう仏のお告げがあった」

 

と言い、八郎に十和田湖を自分に明け渡すよう求めた。


 八郎がそれを拒否して襲いかかると、

南祖坊は9つの頭を持つ竜へと変身して八郎と戦い、

7日7晩にわたり争った末に、南祖坊が勝利した。

 勝利した南祖坊は

「占場」と言う場所から十和田湖に飛び込んで、

 

(エレナが実際にボートで行った「占場」をアメンバー限定記事より特別公開)

 

 

 

青龍大権現となり、

十和田神社に祀られることとなった。

 

 

敗走した八郎は

放浪の末に男鹿半島の根本に

八郎潟を作り出してここに住むようになった


とあります。


 
神社北方高地山林中には、
十和田湖の主龍となった
南祖坊が生まれた時の産湯に使用した、
もしくは南祖坊が願をかけたと伝えられる小池があるそうで、
十和田山として尊信されています。
 
 
ネットで調べると、
南祖十和田神社 鳥居の先には山道が続いており、150mほど登るそうです。
 
 

 

十和田山神教記

 

『十和田山南祖法師の由来については、

関白藤原是実公御嫡男、

是行公の子として奥州糠部郡斗賀村にて御誕生し

南の地に先祖がある故幼名 南祖丸と号した。

 

南祖丸は才智勝れし美童にて

一字を学び十字を智る。

 

一度聞いて忘れること更に無かったという。

 

南祖丸は、当時博学の和尚といわれた、

七崎村の永福寺に弟子として手習学問を教わり、

昼夜の勤勉に、12才となった時は、

すでに師に勝りしといわれた。

 

その後南祖法師は、岩城の常福寺で寺僧となり、

名僧と仰がれたが2年余にして修行の旅に出た。

 

18才にて古郷を出て以来、

60余州をも修行の旅で過ごしたが、

古郷へ帰り両親の御墓を拝し供養せんと志し、

奥州斗賀村をさして下った。

 

修行の旅に出てから早や50年の才月が過ぎ、

体面は白髪壮年の68才になっていた。

 

その後、斗賀村十和田神社に宿り、

生禅し、御告に従い、

この十和田神社にワラジを結んで下山、

錫杖を杖に十和田湖へと急いだと伝えられている。』

 

と書かれてあるそうです。

 

 

 

 

南祖坊は実在した

https://jibunshi55.jimdofree.com/%E5%8D%97%E7%A5%96%E5%9D%8A%E3%81%AF%E5%AE%9F%E5%9C%A8%E3%81%97%E3%81%9F/

 

 

 

色々興味深いですね龍乙女のトキメキ

 

 

 

 
BASE WEBショップはこちら
 
 
天使のシンフォニー事務局

@elena358