コトリンゴ 「悲しくてやりきれない」

 

 

 

悲しくてやりきれない コトリンゴ/この世界の片隅に 片渕須直

 

 

 

20161112日に公開された、アニメ映画『この世界の片隅に』のオープニングテーマです。上の5分のバージョンは、コトリンゴのアルバム『picnic album 1』に収録されたオリジナル・バージョンで、アニメ映画に使用されたバージョンではありません。下の3分のバージョンは、アニメ映画のオープニングテーマとしてアレンジをし直してサウンドトラック盤に収録されたバージョンと同一です。こちらも原曲は5分ですが、この動画では3分に短縮されています。(5分バージョンは見あたりませんでした)

 

 

アニメ映画『この世界の片隅に』において、オープニングテーマ「悲しくてやりきれない」は、2時間0935秒の映画の中の、冒頭において使われております。手元のブルーレイ・ディスクを再生して確認すると、映画の開始から217秒の時点でコトリンゴさんが歌うオープニングテーマが流れます。

 

 

胸にしみる空のかがやき 今日も遠くながめ 涙をながす

白い雲は流れ流れて 今日も夢はもつれ わびしくゆれる

悲しくて 悲しくて とてもやりきれない

この限りない むなしさの 救いは ないだろうか

 

 

上記の歌詞の部分が歌われて、353秒のあたりで、このオープニングテーマは終了します。時間にして約1分半くらいの短い時間です。しかし、ここでこの映画がどういうテーマを基調としているのかが、この部分を聴いた人にはっきりと示される効果を感じとる事ができます。

 

映画の冒頭は、幼い頃の浦野すず(主人公)が親戚の家まで一人で届け物をするために、渡し船に乗る所を描いています。実にほのぼのとした描写で、オープニングテーマが流れ出す頃には、映像は昭和9年1月の平和で活気のある広島市内が描かれます。そして、視点は空へと移って行き、白い雲と青い空の鮮やかな対比のなかで「たんぽぽの綿毛」が、ふんわりと通り過ぎます。

 

このシーンの印象深さは見事です。筋書きやセリフはほぼ原作どおりなのですが、平和な広島市内と、その上空でこれから起る歴史的な事実のほのめかしと、そして、風に吹かれて運ばれて行く「たんぽぽの綿毛」

 

この三つで『この世界の片隅に』という作品の本質のほぼ全てを要約しているような素晴らしいオープニング映像です。その場面に流れるコトリンゴさんの「悲しくてやりきれない」は、もちろん有名な曲のカヴァー・バージョンなのですが、まるで最初からこの作品のために書き下ろされたかのように、美しい平和な映像の中に、生ける者が平和の中でさえ抱く不安や悲しみを、併存的に浮かび上がらせます。

 

本作の監督・片渕須直氏は「悲しくてやりきれない」という歌は、すずさんの表に見えない心の声だと、コトリンゴさんに語ったらしいです。

 

コトリンゴさんの声質は、やわらかく、儚げで、ある種の弱々しささえ感じますが、こういう歌唱での、一言一言の語感の思いよらぬ「強靭さ」を感じる事があります。凄い表現力だと思います。

 

 

アニメ映画『この世界の片隅に』については、私は上映公開当初は全く予備知識がありませんでした。制作資金集めに難航して、制作開始から上映まで6年もの歳月を費やした事。クラウドファンディングという手法で、多くの一般のファンから持ち寄られた資金により、短いパイロット・フィルム(試作版)を作成し、スポンサーに掛け合った事。こうの史代さんの原作が作られた背景。片渕監督が原作に惚れ込んで執念でアニメ映画化にこぎつけた事、、などは全て後から知る事になりました。

 

映画公開当初は、私はある試験に向けての勉強をしていて、その試験が終わったら映画館で何か良い映画を観たいなあ、、と思っていた時期でした。アニメ映画「この世界~」については、当初は小規模な映画館を中心に公開されて、クチコミなどでその評判が日増しに高まって行っていました。ちょうど偶然に試験の日に、私の近所のシネコンでも遅れて公開された頃で、試験終了直後の解放感も手伝って、なんとなく勢いでこの映画を観ました。

 

世界の歴史には昔からけっこう興味があり、日本の歴史にも急速に興味が高まっていた時期だったので、第二次世界大戦における日本の実情などは、一応は知識としては知っていたつもりでした。この映画を観た第一印象は「なんだかよく分からないが、凄いものを観た事だけは間違いない」という漠然とした印象でした。そして、ストーリーは勿論ですが、映像の夢幻的な鮮やかさと、この物語の真髄を最大限に表現し尽くした、コトリンゴさんの音楽の素晴らしさが特に印象に残りました。

 

1回目の鑑賞が終わった直後は、得体のしれない衝撃が頭と五感を駆け巡り、その日は帰宅してからは、この映画に関する知り得ること全てと、この時代の世界史からの視点と、日本史からの視点について、ひたすら「読み」「考え」ておりました。

 

『この世界の片隅に』という作品は、こうの史代さんの原作自体が、解釈を読み手に委ねるような作りになっております。日常描写の中にだんだんと戦争の影(アメリカ軍による本土攻撃)が近づいてくるあたりの描写は、淡々と描かれているようでいて、戦争の残酷さというものを「原物のまま」で日常性の中に差し込んでくるような、逆説的効果を用いた物凄いリアリティーがあります。そして、それでも、日々の日常は悲しみを経てもなお、淡々と進んで行きます。

 

この作品自体は「戦争」というモノの解釈を、断定するような表現を書き表しません。戦争万歳とも、戦争反対とも、どちらの主張もこの作品から「直接的には」汲み取る事はできない仕組みになっております。片渕監督によるアニメ映画は、そんな原作者のこうのさんの意図を相当に尊重した作りになっており、原作の一場面(終戦の玉音放送後の、すずさんの畑での涙の叫び)で直接的な表現を使った所を、もっと広い意味にとれる表現に書き替えたり、主人公・北條すずの強い意思表示(自殺願望、と私は解釈しています)ともとれる描写をカットした箇所もあります。

 

上映時間の制限のためか?  いや、北條すずがアメリカ軍の戦闘機と対峙する時に、逃げずに仁王立ちして戦闘機を睨みつける描写は、アニメ化するにしてもほんの12秒なので、私は片渕監督が意図的にカットしたと解釈しています。この描写はTBSテレビの連続ドラマ版ではカットされずにそのまま描写されていました。(その点において、特に私はあのテレビ・ドラマ版を高く評価しております。)

 

元々、原作においてすら、かなり多義的な読み取り方ができる作品だったので、アニメ化に際してはその姿勢を最大限に尊重した上で、さらに淡々とした日常描写や、人物像をあまり明確にしすぎない演出がなされています。公開当初のこの作品に対する意見は、ほぼ95%くらいの人が作品を絶賛する一方で、この作品から受けた印象は観た人の数だけ違った印象があるというほど、様々な異なる意見で溢れていました。

 

私は、とにかくこれは凄い映画だけれど、「何に」対して凄いと感じたのかがほとんど「自分の言葉」で表現できませんでした。だから、それが何なのかを知りたくて2度目の鑑賞をし、合計で4回も映画館に足を運びました(ネットなどの声では、何十回も観たという人も多かったです)

 

『この世界の片隅に』という作品には姉妹編、(時系列上での)続編とも言える作品がもう一つあります。『この世界~』の4年前に出版された『夕凪の街 桜の国』です。『この世界』は広島県呉市が主な舞台ですが、『夕凪~』の方は広島市が舞台です。『この世界』が戦時中から戦後の半年くらいまでを描いたのに対して、『夕凪の街 桜の国』は、広島に原爆が投下された10年後から現代までを描いています。

 

原作者のこうのさんは、広島を題材にした作品を初めて描くにあたって、終戦10年後からの物語を描かれました。広島市出身で、母親が呉市出身という、こうのさんですが、戦争の事や原爆の事は意識的に避けてきたと語っておられます。『夕凪の街 桜の国』は、短い物語ながら「原爆」というものを扱った作品としては、かなり従来の視点とは異なる方法で、読み手にその事態の大きさを語りかけてくる「静かな衝撃」がありました。この作品で描き切れなかった事を、満を持して世に問うたのが、続編としての『この世界の片隅に』という作品です。そういう意味でこの2作品を通して「一つの物語」であり、この2作品はどちらを切り離しても、一方が成立しないという側面をも有しております(一方だけでも十分に大きな作品ではありますが)

 

『夕凪の街 桜の国』の、あとがきで両作品の原作者の、こうの史代さんが書かれた文章が『夕凪の街 桜の国』だけではなく、『この世界の片隅に』という作品に対しても最も重要な本質を語っておられるように思います。

 

 

あとがき

 

「広島の話を描いてみない」と言われたのは、一昨年の夏、編集さんに連載の原稿を渡して帰省したとかしないとか他愛のない話をしていた時のことでした。やった、思う存分広島弁が使える!と一瞬喜んだけれど、編集さんの「広島」が「ヒロシマ」という意味であることに気が付いて、すぐしまった思いました。というのもわたしは学生時代、なんどか平和資料館や原爆の記録映像で倒れては周りに迷惑をかけておりまして、「原爆」にかんするものは避け続けてきたのです。

 

でもやっぱり描いてみようと決めたのは、そういう問題と全く無縁でいた、いや無縁でいようとしていた自分を、不自然で無責任だと心のどこかでずっと感じていたからなのでしょう。わたしは広島市に生まれ育ちはしたけれど、被爆者でも被爆二世でもありません、被爆体験を語ってくれる親戚もありません。原爆はわたしにとって、遠い過去の悲劇で、同時に「よその家の事情」でもありました。怖いという事だけ知っていればいい昔話で、何より踏み込んではいけない領域であるとずっと思ってきた。しかし、東京に来て暮らすうち、広島と長崎以外の人は原爆の惨禍について本当に知らないのだという事にも、だんだん気付いていました。わたしと違ってかれらは、知ろうとしないのではなく、知りたくてもその機会に恵まれないだけなのでした。だから、世界で唯一(数少ない、と直すべきですね「劣化ウラン弾」を含めて)の被爆国と言われて平和を享受する後ろめたさは、わたしが広島人として感じていた不自然さより、もっと強いのではないかと思いました。遠慮している場合ではない、原爆も戦争も経験しなくとも、それぞれの土地のそれぞれの時代の言葉で、平和について考え、伝えてゆかねばならない筈でした。まんがを描く手が、わたしにそれを教え、勇気を与えてくれました。

 

慣れない表現は多いし、不安でいっぱいでしたが、何も描かないよりはましな筈だと自分に言い聞かせつつ、ともかく描き上げる事が出来ました。

 

(中略)

 

そして誰より「夕凪の街」を読んでくださった貴方、このオチのない物語は、三十五頁で貴方の心に湧いたものによって、はじめて完結するものです。これから貴方が豊かな人生を重ねるにつれ、この物語は激しい結末を与えられるものだと思います。そう描けていればいいと思っています。

 

また「桜の国」では、原爆と聞けば逃げ回っていたばかりだった二年前までのわたしがいちばん知りたかった事を、描こうとしました。自分にとってもそうであった、と気づいてくれる貴方にいつかこの作品が出逢い、桜のように強く優しく育てられる事を、心から願ってやみません。

 

二〇〇四年八月 風の真昼に     こうの史代

 

 

アニメ映画『この世界の片隅に』は、上映開始時には世間からほとんど注目を浴びる作品ではありませんでした。しかし、優れた作品はクチコミなどで瞬く間に評判を呼びこむのだと当時は本当に実感しましたね。以後は異例のロングラン上映を続け、日本アカデミー賞・アニメ部門の最優秀作品賞を受賞したり、二年連続で地上波での放映もされています。戦後75年を迎えるにあたって、こういう形で75年前の大きすぎる出来事を振り返る気運が、まだまだ高まっている事を頼もしく思いながらも、現代の「平和」の意味を改めて考えて行きたいと思わせてくれる作品でした。

 

 

 

「悲しくてやりきれない」 ザ・フォーク・クルセダーズ

 

 

 

「悲しくてやりきれない」のオリジナルは、「帰ってきたヨッパライ」で有名な、ザ・フォーク・クルセダーズです。作詞はサトウハチロー、作曲は加藤和彦。元々は「イムジン河」という曲がリリースされる予定でしたが、諸々の思惑が差し挟まれて、急遽代わりに作られたのが「悲しくてやりきれない」でした。私がこの曲を初めて知ったのは矢野顕子さんのカヴァー・バージョンでした。多くのアーティストによってカヴァーされています。

 

 

 「悲しくてやりきれない」が『この世界の片隅に』のオープニングテーマに選ばれた経緯はなかなか複雑でした。片渕監督の前作『マイマイ新子と千年の魔法』で、コトリンゴさんが音楽を担当した事が1つの縁になりました。片渕監督がコトリンゴのアルバム『picnic album 1』の中の「悲しくてやりきれない」をとても気に入ったので、『この世界~』の特報に「悲しくて~」を使う事に決定。しかし、本編の制作が資金面で難航していたので、2015年のミーティングで片渕監督は「本編は音楽なしで作る」という衝撃の発言を(権利関係で、資金面に影響があったのか)。そこでコトリンゴさんは、新たに「悲しくて~」を再録音して片渕監督に渡したら、凄く気に入ってくれて「決めました、(映画の)最初に使います!」という事になったようです。

 

とにかく、このアニメ映画は、原作と、アニメ制作者と、音楽と、声優の4者の奇跡的な相思相愛と、相性の良さで出来上がっております。原作者とアニメ監督はお互いに尊敬しあう間柄でした。音楽のコトリンゴさんは初期の多才で技巧的な作風から、カヴァー曲を歌う事によって音楽性をさらに磨く事ができ、このアニメ映画のために歌い作った楽曲は、それぞれが芯の通った高いオリジナリティーを持っております。そして主演声優の「のん」は、芸能界のしがらみの中で本名を使う事ができない苦境に立たされながらも、この「すずさん」役で唯一無二の個性を再び輝かせる事になります。

 

思えば、フォーク・クルセダーズの原曲も、発売自粛という苦しい事情の中から急遽として、偶然と必然が重なって生み出されました。逆境のなかから新しく展望が開けて来るという制作陣の経緯を鑑みると、そういう苦境が『この世界の片隅に』という作品の本質と二重写しになって、我々に作品の重みの説得力が伝わるものがあります。逆境こそ、チャンスなんですね。難しいけど、、

 

 

 

最後に、コトリンゴさんが実際に歌っておられる映像を

 

コトリンゴ - 悲しくてやりきれない [LIVE]

 

 

 

歌声も、ピアノ演奏も、何物にも揺るがない個性を感じますね。素晴らしいシンガーであり、音楽家だと思います。

 

 

猛暑の2020814日にて