今回は再び鉄道ネタですが、日本の鉄道は1872年に創業以来、1960年まで80年以上に亘って客車の等級は3等級制で、1等、2等、3等の区別があったことは前にも書きましたが、3等車と、2等車はとても数が多くてその全部を網羅することは困難ですが、特別2等車と1等車に関しては数が限られていますから、それぞれの特徴も把握しやすいのです。


明治時代から昭和の初期までは、客車の窓の下に色帯が入っていて、濃い茶色の車体に1等は白帯、2等は青帯、3等は赤帯で、これがアクセントになって中々良い物でした。

この色帯はお客の乗り間違いを防ぐために考案された物らしいですが、昭和15年に3等車の赤帯は廃止されました。また、戦後占領軍の専用客車が白帯を使ったため、戦後の1等車はクリーム色の帯になりました。

 

その後2等級制に変更になってからは、1等(旧2等)車の帯は淡い緑色になり、グリーン車に引き継がれましたが、いつからか帯は無くなり今ではグリーン車のマークが付いているだけの殺風景な物ですが、昔と違って客車(電車)の色自体が派手になったことも影響しているのかもしれません。

なお、東海道線電化完成時に特急列車は緑色に塗り替えられましたが、この色の客車には色帯はありませんでした。

イラスト1:客車の色帯

 左列上から、1等車の白帯、戦後1等車のクリーム帯、2等車の青帯。

 右列上から、3等車の赤帯、2等級変更後の新1等車の淡緑帯、特急塗装の帯無し2等車。

 

さて、特別2等車に関しては前に概要を説明しましたが、今回はハイソな乗客が利用した1等車について見て行きたいと思います。

辛うじて雨露の凌げる3等車に対して、2等車はゆったりくつろげる車両であったことはいうまでもありませんが、では1等車はどうだったのかということに興味が移るのですが、昔の1等車は確かにインテリアも凝った造りの物もあったようですが、それよりも乗る人の身分が違うということだったようで、1等車は華族や高級官僚、将校軍人というハイソな人たちの言ってみれば社交の場でもあったようです。

1等車は客車が木造であった明治、大正時代には結構種類が多く作られたようですが、運賃が3等の3倍以上の1等車は需要が限られており、また東海道などの幹線区間はともかく地方のローカル線には不要だとの見解で、客車が木造から鋼鉄製に代わって以降は、1等車は全て展望車と寝台車に限られたようです。


鋼鉄製の客車は昭和初期から登場しましたが、その頃は寝台車というのは1等と2等にしか無く、3等寝台車が登場するのはもう少し後になってからだったのです。

我々が普段列車(今は電車ですが)に乗る時、その客車はいわゆる「座席車」と言われる種類で、この他に、昔は寝台車や食堂車、展望車などがありましたが、一部を除いて今はそれらはイベント列車やクルーズ列車という特殊な物にしかなくなりました。


それで、その普通の「座席車」で鋼製客車の1等車があったのか・・・それが気になって調べたのですが、ほとんどが皇室用の客車や国鉄職員が視察などで使う職用車、それに戦後の占領軍専用の客車ばかりで、戦後特急列車に連結されたマイ38型(スイ38)という1等客車が唯一、一般営業に使用された1等客車だったかと思いましたが、これも元は皇室用の客車を改装したものでした。

 

 


イラスト2:マイシ37900

 

イラスト3:マイシ37900 一時改造案

 

更に調べて見つかったのが、純粋に最初から1等の座席車として作られたのがこのマイシ37900型という客車で昭和6年に5両だけ作られました。
(追記:各書物やWEB上の記事などで、製造年が昭和5年という記事と6年という記事があり、同じ書物の中でも5年6年が交錯している物もあります。車歴を調査した所、昭和6年3月に2両、5月に3両製造されたことが判明したのでここの本文も訂正しました。なお、5年製造と誤った記載は恐らく形式図の製作日が昭和5年となっていることに起因するのだと思います。10月26日)
イラストを見て分りますがこの客車は右の1/3だけが1等座席車、あとの2/3は食堂車という構成で、右側からトイレ、1等室、乗務員室、喫煙室、食堂、厨房と並んで、左端のドアの部分は塞がれてここは倉庫になっていました。
車体は鋲(リベット)留め、屋根は2重という古臭いスタイルですが、これが唯一の一般用の1等座席の鋼製客車なのです。

この客車、東京から下関まで運転された特急「富士」に接続して、門司から長崎や鹿児島に行く急行列車に連結されたのです。

 

上のイラスト2は、私の持っている図面から作成した物なのですが、父からの指摘により実際に製造されたのは下のイラスト3の姿だったようなのです。WEBで検索したところ、色々な方が模型を作ったりイラストを描いたりしていましたが、全てイラスト3と同様の物でイラスト2の初期案の物は見つかりませんでした。

1等室には1人掛けと2人掛けの転換クロスシートが配置され定員は10人でしたが、やはりこれでは定員が少ないので、乗務員室や喫煙室を廃止してこの部分を食堂と1等室を増やして1等室の定員は13人として製造されたと考えるのが妥当だと思います。

 

 


イラスト4:マイシ49

イラスト5:マイシ49 青大将

 

それでこちらのイラストは如月がデザインした架空の車両で、もし戦後にも同じ用途の客車があったらと思い作った物です。
マイシ49型としましたが、スロ60型の車体に窓配置も真似し下回りはマイシ37900と同じにしてあります。

こちらの1等室内には1人掛けのリクライニングシートが1250㎜のシートピッチで並んでいると想定。1等室の定員は8人です。


イラスト5は特急用の緑塗装(青大将というニックネームがあります)にしたところです。展望車の連結がなかった臨時特急の「さくら」にでも使ってもらいましょう。

 


イラスト6:マイ38 青大将

 

こちらは一見特急専用の3等車スハ44型に見えますが、実は最初にも書いた皇室用客車を改装した1等車マイ38型です。特急「つばめ」「はと」に増結されて営業された当時の緑色の姿です。

改装当初はスイ38型と称し、室内にはミーティングテーブルなどもあったようですが、冷房搭載と同時にマイ38型になり、ミーティングテーブルは廃止しシートピッチも拡大されました。
室内には一人掛けのリクライニングシートが並びシートピッチは1140㎜、このため窓割りと座席配置が合っていません。
定員は24人だったようです。

これらのイラストを見て気づかれた方もいると思いますが、客車の車輪の部分ですが、1つの台車に車軸が3本ある、3軸ボギーと言うのを使っています。

現在は見かけませんが、昔の客車、特に1等車や寝台車、食堂車などはこの3軸ボギー台車を使っていますが、これは3軸の方が2軸の台車より乗り心地が良いからだそうです。

今では空気バネ付き台車で2軸でも十分乗り心地が良いのですが、当時は全て鋼鉄の板バネが使われていました。

鉄オタの方々、特にこのような国鉄の旧型客車が好きな人は、とにかく実物にこだわる人が多いようですが、如月はどんどんオリジナルな物を考えることが楽しいと思っています。

 

今後も色々なオリジナルも含めて、客車のイラストをご紹介します。