失われた時 | 冥王星移住計画

失われた時

あのころはたのしかった──そう思えるいくつかの時間がある。
その時間はふたたび巡ってはこない。
ただふとした弾みで思い出すだけだ。

もう長いこと、「いま」がたのしいと思ったことがない。

ゴーリキーはいう、「明日なすべきことを知らぬ者は不幸である」と。
真実だと思う。そう実感する。不幸のただなかにあるときには、明日したいことなんて思い浮かばない。そんなときにはひとはただ無を欲している。
生きる活力が芽生えてくるたびに、ゴーリキーのその言葉を思い出す。明日という時間に、可能性を見出す。朝日が巡ってくれば、あれもできるこれもできる、と思う。思念の迷宮から解き放たれて、時間が、空気が、光が肌で感じられるようになる。

とはいえ、これは処方箋にはなりえない。かならずしも身体感覚を研ぎ澄ませば精神の健康を取り戻せるというわけではない。心身二元論および因果律にもとづくような相互作用の問題というより、心身の合一の問題だと思う。
オカルトじみたいいかたをすれば、それはとつぜんやってくる一瞬だ。

明日を思う。明日の一分一秒が秘めている可能性を思う。一分一秒の強度が積分されてゆく様子を思い描く。反復されてゆく祝祭の永続性を思う。照りつける光の一条一条を、吹きつける風の一陣一陣を、踏みつける砂の一粒一粒を思う。主観という尺度の前に立ち現れては消えてゆく存在と時間を思う。

「おまえはまだなにかを怖れているのか?」と自分に問う。
「いや、なにも怖れてはいない」と答える。顔の筋肉によぶんな力はいっさい入れずに。

まずは疲れたような表情を、怯えたような表情をやめよう。
まだ笑えなくとも、むりに笑う必要はない。
ただあらゆる状況において真顔を保つことをおぼえよう。
そうしていれば、いつかきっと心をくすぐられる時もやってくる。

目と口もとに力を。過分な力ではなく、適度な力を。
そのわずかな力がやがて時間と存在を御するにいたるだろう。