愛は理解の別名なり
これは、タゴールの言葉らしい。
誰の言葉とも知らず、随分前から言葉自体は知っていた。
愛すること。理解すること。
これは同義なのか。どんな文脈でタゴールがそういったか知らないので、よくわからないけれども。
一方で、
愛することは、ほとんど信じることである。
これは、ユーゴーの言葉。
私には、こちらの方がうなずける。
それはともかくとして、人間理解について。
自分自身にあまり無い考えや感じ方は、理解するのも難しい。
自分自身にあったとしても、言葉として明確に捉えられていなければ、漠然としたものに過ぎない。
無意識下で、ブロックしてしまっているということかも。
時として、
ああ、人の動機の主要なものに、そういった言葉で表現できるものがあったんだ!
と気付く機会がある。
先日、そんな言葉に出会う瞬間があった。
おもいっきり、視野が広がった感。
振り返りみれば、
どちらかと言えば私は、現実主義的な傾向があるのかも。
その傾向が、視野を狭くしていたに違いない
変な話、なんか安心した。
理解は、精神的安定をもたらすものかもしれない。
そうすると、やはり理解と愛をイコールにできるのか?と思ってしまう。
理屈にもあわなければ、損得関係ないという愛のもつ側面が抜け落ちている。
愛という言葉自体をどう定義するか。
そもそも、そこから人により異なっている。
やはり、言葉も人間理解もなかなか難しい。