ルカによる福音書10.27
隣人愛とは、どういうものなのでしょうか。
最近、私が一番よく考えているテーマです。
上記の言葉の通り、隣人愛は、自己愛、また神への愛と繋がりがあり、切り離せない関係にあります。
隣人愛は、愛の一側面であり、自己愛、神への愛を抜きにして語る事はできません。
私の場合は、優先順位として、殆どの場合が、まずは自己愛、二番目に隣人愛、三番目に神への愛、というところでしょうか。
対して、所謂、聖人と言われる人の愛は、断然神への愛が第一優先なのです。
例えば、ポーランドのカトリック司祭であるコルベ神父の事が、真っ先に思い浮かびます。
1941年、アイシュビッツ、ビルケナウ収容所にて、他の囚人の身代わりとなり、飢餓室にて亡くなりました。
『女の一生 サチ子の場合』遠藤周作
の中で、コルベ神父の話がとても感動的に描かれています。
とても、真似なんてできませんし、また、求められてもいません。
身近な人達への思いやり、もしくは、困っている人を見かけた時に、自分に出来る限りの事をするくらい‥それも自分が余裕がある時だけ。それが、精一杯だし、それで良いのだと思います。
自己愛を犠牲にしない程度ですよね。
ところで、具体的に隣人とは誰を指すのでしょうか。
ルカによる福音書10.25、善いサマリア人として、このような喩え話があります。
律法学者がイエスに、隣人とは誰かと尋ねた事に対して。
ある人がエレサレムからの道すがら、追い剥ぎに会い、半殺しの状態で倒れていた。祭司が、また次にはレビ人が、彼の存在を見つけたにも関わらず、避けて通り過ぎた。
ところが、サマリア人が彼を見つけると、介抱し、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行き、費用をも出した。
イエスは、尋ねた。
追い剥ぎに襲われた人の隣人は、誰か?
その人を助けたサマリア人です。
律法学者は、答えた。
キング牧師が、暗殺される前日に、このように語っていたそうです。
レビ人は、『もしわたしが旅人を助けるために止まったならば、わたしはどうなるか』という疑問を持ち、サマリア人は逆に、『もしわたしが旅人を助けなかったならば、彼はどうなってしまうか』という疑問を持ったのです。
各々が持つ価値観によって、選択される行動は、大きく異なります。
また、一方で。
愛を受け取った側が、どのように感じるのだろうか、それも気になるところです。
それは、自分がよし!とすれば、考えなくても良いのかな。
そこまで与り知らぬところ、ですよね。
あと、大切な人だと、殊更助けたいけど、そうでも無い人には‥なんて考えると、自分の罪深さを思い知らされてしまいます。
神様への愛が足り無いのでしょうね
そうではなくて、大切な人への愛が、いっぱいありすぎ?
それならば、神様は許してくださるかも。