時差ぼけでしっかりブログが更新できていないが、今僕はアブハジアという国に来ています。
詳しくは、またこのブログで紹介するとして。
とりあえず、ロシアからの出国もドタバタしながらなんとかなんとか来ることができた。
日本の外務省の外務省のHPでは、レベル4(今すぐに避難してください。渡航は各自の自己責任で!)という一見怖そうな国だが、今はとりあえず元気です。
そしてむしろ楽しめている状況です。
また更新するのを皆さん楽しみにしておいてください!
Facebookでは、写真をアップしてます!
また!
「僕がいまだに岐阜へ行く理由」について長きにわたって記事を書いてきたが、今回はおまけとして、こんな辛い事?楽しいこと?があったよ!というお話をしたい!
岐阜で生活して一番最初に思ったこと、それはさっ寒いすぎる!!!ということ。笑
1月は雪も降っており、雪が降らない沖縄出身のぼくは本当に寒かった。
初めて雪が降る場所で生活をする僕は、雪がらみは本当に楽しませてもらった。
まず一番最初に笑ったのが、屋根の上に雪が積もったまま走る車。
今思い出すとなんでこんな事で笑ってたんだろうと思うけど、車が信号で止まる度にフロントガラスに雪がザザ~っと落ちてくる。なんかこれが本当に間抜けに思えてめっちゃ笑えた。
実際に住んでみると、フロントガラスが凍るので、水をかけて溶かして会社に出勤するのは当たり前だけど、わざわざ屋根の雪までは落とさない。でも時々それを見ると、なんだか初心を思い出してまたやる気になったりした。
そして、部屋を借りて岐阜に住み始めた頃、家具も家電も沖縄からまだ届いていなかったので、本当に何もないところに、マーサ横のニトリで買った一番安い布団をひいて生活をしていた。
ある日、スーパーで夕食の惣菜と飲み物を買って帰った。夕食を済ませ、お風呂に入って布団で眠りにつこうとした時、部屋は最初から暖房も付いていたので暖い、しかし冷蔵庫はまだ無い為、買ってきた牛乳が腐るのではないか?と思った僕は、良いことを思い付いた!
そうだ!ベランダが寒いから、ベランダで冷やそう!
そう思って牛乳をベランダに出し、ぼくは眠りについた。
そして翌朝、朝食のパンと共に牛乳を飲もうとベランダから牛乳を取り出してみると、なっなんとぼくの牛乳がカチンコチンに凍っているではないか!!!笑
きっとこれは沖縄の人しかわかってくれないと思うが、冷蔵庫は食品を冷やす為にあると思っていた。しかし、冷蔵庫の中より寒くなる所では、冷蔵庫は保冷するものだったのだ!!!
もちろん会社で仲間にその話をすると、本当に冷ややかな目で見られたが、頭ではわかっているつもりだが、冷蔵庫より寒い所で住んでいる人がいるんだなぁ~と本当に岐阜県民を尊敬した。
そして失敗例はもう一つある。
ある日、人生初体験のスキーに行った。もちろん最初は動きもぎこちない。しかし、テレビでも見たことあるし、基本子供もみんなできるので、まぁ滑れるでしょう~ということで、すぐにリフトに乗り、上級者コースに行ってみた。
そして頂上まで着くと、テレビで見ているイメージ通り、腰を落とし棒を脇に抱え、真っ直ぐに滑り出した。
シャァーっと快調に滑り出した。それはそれはとても気持ちが良かった。
な~んだ!スキーって簡単じゃん!とさえ思った。
しかし・・・
僕はふと思った。
どうやって止まるんだろう??笑
そう、僕は止まるイメージをまったくもっていなかった笑
なんとなく失速していくのかなぁ?と思ったが、腰を落としている為スピードは上がるばかり!(汗)
怖くなった僕は・・・
キャァーーーーーーーーーーーー!!!!
しっ死ぬー!!!!!!!と叫びながら滑っていた(笑)
本当に死ぬかと思った。。。
一緒に行った仲間が、倒れろ!倒れろ!!と言っていたので、勇気をだしてスライディング!!!!スキー板は取れて吹き飛び、棒もどこに行ったかわからない。。
はぁ~取り敢えず助かったぁ~と思っていたら、ある男性がシャーっと駆けつけてくれて板などを集めて持ってきてくれた。
「大丈夫ですか??」と言われて
「すみません!ありがとうございます!僕沖縄から来たので滑れないんですよぉ~」
なんて恥ずかしくて言い訳をしたら、ゴーグルを外した男性が
「えっ!!!沖縄の人ですか?僕も沖縄県民です!」
と言ってきたのである!
ガッガーン!!!!
まさかのこの遠い地で、同郷の沖縄県民に助けられた偶然、そして言い訳をしたら、かたや同じ沖縄県民でも、救助するくらいスキーが上手い。。
この驚きと恥ずかしさで本当に死ぬかと思った。
そしてその日はスキー終了。
このスキーが本当に怖かったのだろう、その日は寝てもこの時の「止まれない!!」っていう状況を何度も夢で見ては、うなされて起きるというのを繰り返した。
翌日はもちろん全身筋肉痛だった。
日本の初めての冬は厳しかった(笑)
同じ日本でも、環境が変わるというのは本当に大変なことなんだなと思った。
僕は、岐阜にいた3年間で全ての市町村をまわり、子供達と触れ合ったり、その土地の美味しいものも食べさせてもらった(笑)
そんなこと言うと、お前はやっぱり岐阜の美味しい物食べに来てるのかぁ!!なんて言われそうだが(少しそれもある笑)、それよりも多くの人たちに本当にお世話になり、可愛がってもらい、そしてその人達にまた来ます!また一緒にボール蹴ろうね~なんて約束をした。
あの日、今西さんが突然いなくなり、そしてその後グラブの方向性として、「地域貢献に力を入れない」ということが決まり、我々地域貢献推進部も事業部ホームタウン担当という名になった。
僕がよそのクラブ時代のFC岐阜のイメージを話したが、僕が1年目岐阜県内を回り出した時は、コアなサポーター以外、県内の皆さんも僕と同じ様に、あまり良い印象を持っていなかった。
僕が、地域の皆さんにアポを取ろうとすると、「過去に嫌な思いをした!」「また来たのか!二度と来るな!」「会いたくない!」という様なことを本当に言われた。
それが今西さんのおかげで段々理解してもらえる様になり、話を聞いてもらえる様になり、そして僕なんかご馳走してもらえる様にまでなった(笑)
そんなやっと地域の皆さんにご理解頂ける様になり、また来いよ!また来ます!何て関係になった時に、「もう行かなくていい」という状況になってしまった。
僕がいた2010年から3年間は、J1・J2(当時J3はない)の中で、ダントツ1位のホームタウン活動数だった。もちろん数をこなせば良いというものではない。しかし、その成果は確実に出てきており、クラブ史上初の観客数10,000人突破や、地域貢献ウェアスポンサーの伸びなど、巻いていた種が確実に芽を出し、今後の実りが本当に楽しみだった時の出来事だっただけに、本当にショックだった。
今西さんが社長を下されたのを、みんな経営がダメだったとか、お金集めができなかったという様なことを言うが、正直今西さんがいなかったら、FC岐阜の様に当時信用がないクラブはJに上がれなかった。
前回の記事でも話したが、今西和男の日本サッカーへの貢献度、今西和男の信頼だけで岐阜はJにあがったのである。
今西さんが経営を引き継ぐ前から経営はめちゃくちゃで、そもそもお金なんかなかった。そんなどマイナスな状況から、やっと0に戻れそうという道筋が立ちそうな時に、すべては奪われた。
まぁ、今更3年も前のことをどうこう言うつもりはない。
厳しい言い方をしたら、それでももっと早く経営を改善できなかった、今西さんの理念を残すことができなかった我々の力のなさだろう。
しかし、そのおかげで僕は今でも岐阜へ行くのである。
今西さんがいなくなった後、僕も色々考えたが岐阜を離れることを決めた。
しかし、僕には岐阜の皆さんとの約束がある。出会った素晴らしい仲間や友達がいっぱいいる。
だったら、もうFC岐阜がやらないと決めた地域貢献活動を独自で行うことができないか?と考えたのである。
そんな時に、僕よりも思いの強い岐阜出身のメガネ君から進退の相談を受け、話し合った結果二人で小さな会社をスタートさせた。
そこでは、笠松にできたらサッカー場の管理、そして今まで見ていたキッズのサッカーや、障害者スポーツ、そして大学の非常勤講師など地域とスポーツを取り巻く環境のサポートを行うこととした。
これが僕がいまだに岐阜へ行く理由なのである。
僕は、この一般社団法人IGSという会社の理事を行うことで、毎年数回岐阜に行くことができるし、そうやっていくことで、岐阜の皆さんと交流することができる。
まだまだ小さな会社ではあるが、今西さんの思いを継承し、クラブを離れた今でも、岐阜県のために何ができるか?よくしてくれた人たちのために何ができるか?を考えながら、今後もまた岐阜にお邪魔しようと思う。
前回ご紹介した、今西さんという偉大な方との岐阜での出会い。この出会いは僕にとって本当に大きなものとなった。なぜなら、この出会いこそが僕がいまだに岐阜へ行く理由なのだから。
こんなことを言うと、FC岐阜のファンの皆さんから怒られてしまいそうだが、よそから見た昔のFC岐阜のイメージを少しお話ししたい。
僕は、FC琉球時代、JFLの運営をお手伝いしている頃FC岐阜を迎えたことがある。実名を出すのは控えるが、あの頃のFC岐阜は正直酷かった。。。
会場となった北谷町陸上競技場での試合の時、会場の中でも外でも、ベンチの脇でも、子供もファンも見ている前で堂々とタバコを吸っては、その辺にポイっていう感じだった。
試合中の態度なども、これが本当にスポーツマンか??
とショックを受けるほどだった。。。
そんな負のイメージをよそのチームは持っていたため、僕が岐阜へ行くとまわりに相談すると、あそこはやめておけ!といく先々で言われたのを今でも覚えている。
しかし、今西さんが経営を行ってからチームが変わり始めているという声も少し聞こえ始めた。
僕も一度行くと決めたので、まわりの反対も多少あったが、岐阜へ行くことを決意した。
僕は、地域貢献推進部という部署で働くことになった。
FC岐阜は、Jリーグクラブでも珍しい、県と県内全市町村が株主という、名実共に地域に根ざしたクラブだった。いや、地域に根ざさなければならなかったというのが正解かもしれない。
すぐお隣に愛知・名古屋があり、サッカークラブといえば「名古屋グランパス」だった。
これは沖縄から来た僕には衝撃だったのだが、地元紙やTVも「ぎふチャン」「岐阜新聞」とあるのだが、やはりテレビの主役は、「東海テレビ」「メーテレ」「中京テレビ」、新聞は「中日新聞」など、東海圏全域を対象にしたメディアが中心なのだ。その為、スポーツニュースや新聞のスポーツ面は、沖縄だとJFLやJ3でも大々的に扱ってくれるが、東海圏だとやはりJ1の名古屋グランパスの記事が中心で、岐阜のことは小さく扱われることが多かった。もちろんリーグが違うのでしょうがないことなのだが、比較対象が世界のトヨタのクラブとあっては、岐阜のクラブが太刀打ちするには、やはり同リーグに属し、グランパスを上回る結果をだないとなかなか厳しいのだろう。
これが、どう言うことかというと、入場料収入と並んで大切なスポンサー収入が、露出の多いグランパスと露出の小さい岐阜では、スポンサー料に大きな差が出る。
そしてもちろん、この様に毎日見るテレビや新聞で、これだけ扱いが違うと、車や電車でほとんど移動時間が変わらないグランパスの試合を見に岐阜から行く人も多くいて、入場料収入にも差が出るのである。
そうなるともちろんチームの強化費にも大きな差が生まれ、その結果チームの順位にも影響することになる。
そんな強化費が少ないクラブが、天皇杯で次々強豪チームを倒し、ベスト8まで勝ち進んだのである!(長良川劇場)これが語り継がれるほど大変なことだというのは、のちにクラブに携わるようになってから痛感させられた。
これは、本当にあった笑い話なのだが、岐阜よりも名古屋寄りのある市の市議会で、グランパスのホームゲームを誘致しよう!という話が持ち上がっていた。
行政担当者から、問い合わせがあり、基本Jクラブは、ホームタウンでの試合開催が基本で、ましてやよそのチームのホームタウンで試合を行うなど、もっての外であるということを説明に行った。(笑)
特に海がなく、県境が全てよその県と陸続きな岐阜にとっては、よそを排除したり、地元のものを特別視することは、沖縄のように海に囲まれた県と違い、なかなか難しいことなのだ。
そんな状況でクラブを経営していくとなると、本当に県民に「我が街のクラブ」であると認識してもらわなければならない。そこで今西さんは、地域貢献推進部を設け、「子どもたちに夢を!!」というスローガンのもと地域を訪問し、「岐阜県のクラブとして地域に何ができるのか?」「クラブとして何をすべきなのか?」これをスタッフに徹底的に考えさせ活動を行わせた。
ただサッカースクールをしたから応援して!スクールやったからチケット買って!というようなことはほとんどなかった。
県民に、Jクラブが街にあるという喜びを感じてもらうためには何をすべきか考えて活動を続けたのである。
明日、「僕がいまだに岐阜へ行く理由」最終回。