身近なルーツを探る真実の探究

先ずは我が家の家系の歴史から。


歴史の紐解きは文字に残す事により「美談」に仕上げる事が可能です。

それは本当かな〜?
と疑問を投げかけて、表立っては見えない部分を探ってみたい訳です。

[旅館から始まる歴史]
では何故、旅館なのか?

そもそも旅館とは?

古い歴史に見る「宿」と言えば

権力のある人(王侯、貴族、殿様、武家)

など主に支配層や公的身分の人達が安全な移動の為に主要な街道沿いに一定区間で置いた公用の宿泊施設がルーツと言われています。


宿の創成期(仮に奈良時代)から江戸時代までは今で言う一般人(普通の市民)つまり

公的身分では無い人などはおいそれと

自分の村から出れ無かった。

(今に例えれば、政治家や天皇家、宗教家などは何処へでも行けるが市民は居住区かは出られない)


あくまで「宿舎は公的支配層の為のもの」

から始まり、江戸時代辺りまで来ると支配の構図が安定して来るので、身分や豊かさに応じて庶民の移動が可能になって行きました。

まあ、年貢や税の取り立てをしっかり行うには労働力を一定の場所に固定する必要があるし、身分の低い百姓や奴隷などが外の世界を見聞して知識を付けたり収入を得たりしては支配層の人が困る訳です。

江戸時代前に旅行が叶う例としても兵役や物納の税を納める為の移動で有り、旅費や食料は全て本人負担のかなり過酷なもの。


支配層の移動は今では考えられない程の

集団移動であった事は参勤交代の例に見る事が出来ます。

また仏教伝来の500年代から各地に

寺社が建立され始め、神道の山岳信仰とあいまって修行や修験の為に各地に

大勢の人が集まる仕組みが出来上がって行った。

一体どれだけ大勢の人が集団で移動、宿泊したのか?は現代では到底想像もつかない人数です。適切な例えか分かりませんが、オウム真理教施設が巨大であった事を考えると、比叡山、高野山を初め全国各地に

巨大宿泊施設が数多くあった事が容易に考えられます。

平安時代に始まる熊野詣(くまのもうで)は参拝者の行列が「蟻(アリ)の熊野詣」と呼ばれる程多くの人が集まった様です。


仏教の修行、参拝に伴う宿は、宿坊、布施屋、悲田処(ひでんしょ)などと呼ばれ街道筋に無数に出来て行った。

(高野山の最盛期は200軒の宿坊が存在)

簡単に言えば宿泊者の世話をする場所な訳ですが、、、

悲田処(ひでんしょ)については

東村山市の例では

悲田処の建物は(wiki)

「板倉」「タケヤ」「ウメヤ」

「ハナヤ」「薬師寺」の五棟からなっており、中心的な建物は「薬師寺」であり、これが悲田処の本部というべき存在であっ

た、との事。


ようやくここで、

故郷の越後に重なるキーワードが出て来ました。板倉薬師寺です。

故郷の地名に板倉町(現 板倉区)言う町名が有ります。町内の山奥には山寺薬師という地域も存在します。


日本の歴史で地名が付けられた当時は

そのエリアがどんな役割を果たす場所なのか」を示す物だった様に思います。

支配層が統治を行うに際して分かりやすい呼び名を付けた、と言う感じでしょうか。


713年(奈良時代)から地名を漢字2字表記にする動きがあった事は仏教の支配を強める為の政策であったと思われます。


名前が無かった場所が名前を持つこと

の意味など次回の記事にて探って行きたいと思います。