今回の真実探求も

家系のルーツで有る「旅館」をベースに、生まれ育った地域の歴史を探りながら、

「何故、旅館を営むに至ったか?」と言う経緯を探りたいと思います。


歴史の紐解きは神話を始めとして
「美談」で語られる事が多い。
天から神が降臨したり、弘法大師の様な高僧が杖を突いたら温泉が涌いた、とか、大昔にあったとさ、、、とすればへぇ〜、となるのだが、現代ではその様な史実が実際に目の前に現れる事など考えられない。何故、昔はあったのに今は無い、、、ここに疑問を持たないのか、と不思議に思う訳です。

結論を先に言ってしまえば、
歴史物語と言うものは天皇や神社仏閣などの支配層が権威を維持、または誇示、正当化せんが為に書き残したものと考えられる。
中央から地方へ、距離的にも遠いところまで伝わるように。。。
当時から何世代も先の遠い未来まで。
時代を超えて広く長く信じさせるように。。。支配層の巧みな記録の残し方ではないでしょうか。


板倉と薬師寺

前回の記事で宗教的な宿泊施設が宿坊として生まれた事に触れました。

悲田処(ひでんしょ)と言い、5つの建物で構成されています。

板倉薬師寺、ハナヤ、ウメヤ、布施屋の5つです。


板倉町の山奥に山寺薬師と呼ばれる地域が存在(中心部は針と言う地名)。


故郷の歴史を簡単に振り返って見ます。


500年代(飛鳥時代)

板倉町の山奥に山寺三千坊の存在を認める。


600年代(飛鳥時代)

中臣鎌足が八海山6合目に祠を設けた。


700年代(奈良時代)

奈良時代の後期に板倉郷の首長の墳墓を削って「塚之宮八幡宮」が建てられた。

(京都の石清水八幡宮を勧請して)

板倉からは少し西へ離れるが後に関所が置かれたエリアの関山神社708年建立(開基 裸形上人)


794年~(平安時代)

「和名抄」(931~938年)に「板倉郷」の名前が見られる。


山寺三千坊と言う名前から修行の為の宿泊施設が3,000軒あった、3,000人分相当の施設があった。と考えられる訳ですが、、、現代では小学校ですら廃校になるような寂れた山村に、そんなに沢山の人が居たとは驚きです。

高野山の熊野詣でですら遠くからの眺めを蟻の熊野詣でと例えたそうなので、板倉町の山奥へと向かう修行僧や修行を始めたい人、百姓を捨てて出家を願う人々が次から次へと街道を往来したのでは?と想像する訳です。

上記で悲田処(ひでんしょ)と呼ばれる

宿坊の事を書きました。

別名を板倉、薬師寺、ウメヤ、タケヤ、ハナヤと呼んだ。


板倉の地名由来-A

米処として日本有数の産地であった事から

米蔵(米蔵)も多かったと想像すれば板倉=単純に「板で作った倉」と呼ばれる蔵が多く存在した事が考えられる。


板倉の地名由来-B

神仏、山岳信仰で山寺三千坊を目指して多くの人が集まった事から、その地を指して宿坊の「板倉」が呼び名となっていった。


以上A,Bとも個人的な自論。


宿坊の悲田処(ひでんしょ)には仁問番(にんもんばん)呼ばれる「道中で倒れたり病気の人などに声を掛けてお世話をする専門の役割の人」が存在したそうです。


旅館のルーツの一つと考えられる

悲田処(宿坊)や専門職の仁問番について次回も引き続き探求を続けたいと思います。


それにしても宗教と言うものは

歴史的にも影響が大きいのですね。

改めて自分との関わりをちゃんと知りたい、とつくづく思いました。