きょうは僕のこと。
なんとなく、ひとに影響されがちなものですので
泣く行為が苦手だと思っている。もしかしたら、人前で泣くことを無意識にカッコ悪いと思っているのかもしれない。
最後に人前でぼろぼろ涙を流したのを覚えているのは、中学1年から2年にあがるときだったような…?或いは順番の違いか、泣くのがカッコ悪いと思ったときがあって、いつしか本当に泣けなくなったような
泣くのは苦手だ
というか、自分が抱えた悲しみを外に出すのが下手くそである。普通の人がどうしているのか、いまだによくわかっていない。というか、あんまり悲劇ぶりたくはないんだけど、自分は普通の人より悲しみを拾っているような気がする。普通の人という表現もほんとは嫌で、僕自身も普通の人でありたいと常日頃思っているが、普通の人が何にも気にしていないそこら辺のどーでもいい悲しみを、無駄に肥大化させてまるで被害者の如く抱えている節がある。というか節しかない。
の癖に、泣くことは苦手である。極論ではあるが、身内の葬式で泣いている自分を想像できない。あるいは、良き友との今生の別れで泣いている自分を想像できない。
何だろう、さっき言ったように 泣くことがカッコ悪いと思っているのと近いところがあるが、泣くことを強要されているかの空気が、僕はあまり得意ではないのかもしれない。泣く行為というのは、悲しみ(嬉しいときに流す涙もあるのだが、ここでは話題から逸脱するので敢えて割愛する)を身体で表現する行為である。何だかそれが苦手なのかもしれない。恥ずべきとは思わない。だけど苦手なのである。ひねくれた性格なのは自覚はしているが
泣かないというわけでもない。
人前で泣くのが苦手なだけで、ひとりのときはよく泣いている。
とは人に言えど、それも半分くらいは嘘だ。何もないのに泣けるような悲しい事態に陥ることがない。そういう意味では僕の人生は順風満帆で幸せだ。ひねくれた考えのもとで他の可能性を考慮してみるならば、僕は悲しみの許容量の絶対値が圧倒的に少ないのかもしれない。普段僕が享受する悲しみはリミッターが掛けられていて、何かしらによってリミッターを解除しなければ 泣くという行為の及ぶ悲しみの量まで享受できない 無意識的に悲しみから目をそらしている可能性がある
たとえば、泣く行為を何かで代替している可能性もある。悲しみの物質を何かに変換することによって、貯蓄可能になるかもしれない。
僕は一人ではたまに泣く。
ただ、悲しい状況に陥ったときに、それを直接的な原因として泣くことができない。何か映画か、アニメか、小説か音楽か、間接的に感動させてくれる何かがないと泣けない。普通の人はただ悲しいだけで泣くのだろうか?あまり人には聞けないことだ。
僕は泣くのが苦手だ。
でもなぜ苦手なのかはわからない。もちろん、どうやったら苦手じゃなくなるのかもわからない。
悲しいことだが、涙は出ない。
子供の頃、ベットの中で、世界が滅ぶ想像をしたり、親が死ぬ想像をしたり、あのとき泣いていた自分を少し懐かしいと思う。これが大人になるということならば大人になりたくはないとも思う。悲しいことは増えていくだけなのだろうか、
おやすみなさい