「そう言えば、吉田さんが行きたいと言っていた箱根だが、安藤事務所が利用していた温泉からの案内状が来ているだろ? 今年の事務所の旅行先にどうだろう」

「大先生、有難うございます。大変嬉しいです」

 吉田理恵は喜びの声をあげた。

 その時であった。突然、ビルが揺れた。

「大先生、地震です。皆さん、気をつけながら机の下にもぐってください」

 落ち着いた工藤の声ではあったが、深刻さが伝わった。

 遼太は、机の下で身をかがめながら、今まで経験した規模とは違う揺れを感じた。

 暫くして揺れが収まると、テレビから途方もない報道が流れた。

 三陸沖深さ24キロメートル、マグニチュード9.0という未曽有の地震発生の知らせであった。

 発生から4分後の14時50分には、岩手、宮城、福島の三県に大津波警報が発令された。

「すごい揺れでしたね。恐かったです」

 吉田理恵が、声を震わせた。

「南海大地震かと思いました」

 机にしがみついていた門田も、驚きを隠せない様子であった。

 遼太は、深刻な事態に身体が震えた。

 パソコンに映し出されている準備書面の画面を閉じ、窓辺に立って遙か彼方に目をやった。

 頭の中には、気がかりな東方に住まう人の姿があった。

「大先生、奥様がお見えです」

 吉田が、声をかけた。

「お仕事中、ごめんなさい。途方もない大きな地震だわね。関東の知り合いに連絡しようとしても電話が通じないの。居ても立っても居られなくて、……」

 妻の佳織は、血相を変えて遼太に話しかけた。

 突然、防災行政無線放送が流れた。

 県内の太平洋に面する沿岸部に、津波の危険性が迫っている、という緊急放送であった。

 遼太は、職員たちに帰宅を促した。

 その時であった。

 テレビから家や田畑を一気に飲み込む、無残な津波の映像が流れた。

「見て、大変よ! 津波で多くの被害が出ているわ」

 佳織は声を震わせた。

「何ということだ!」

 遼太は、巨大な津波に住宅が飲み込まれていく映像に目を疑った。

 さらに、テレビ画面は、千葉県市原市で、製油所の高圧ガスタンクが落下し、ガス管の破裂で爆発炎上を映し出した。

 それを目にするや、遼太は市原市に住む姉の美穂に安否確認を行った。

 電話は一瞬繋がった時点で、無事が確認されたが不安は増大した。

「大先生、今日のお祝いの延期はやむを得ませんが、花束贈呈だけでもさせていただけませんか」

 未曽有の惨事を目の当たりにした工藤は、被害にあった人たちへの思いに心を寄せ、沈痛な表情を浮かべた。 

「大変な事態の中ですが、大先生と奥様のご結婚30周年を祝して、花束贈呈をさせていただきます」

 工藤の進行で、遼太には吉田、佳織には、門田からそれぞれ花束が贈呈された。

花束を受け取った遼太は、所員たちの配慮に、心からお礼を述べた。

「お料理は、持ち帰っていただきたいので、少しお待ちください」

 佳織は、吉田と共に手際よくパック詰めにした料理を各自に手渡し、帰宅を急ぐよう伝えた。

 所員を見送った後、遼太は被災地の被害状況が、繰り返し報道されるのを見て、その惨状に心が痛んだ。

 かつて運命に翻弄され、苦しんだ遠い過去と、目の前で起きている無慈悲な現実の姿が重なり、どこにもぶつけようのない悲しみが渦巻いた。

  そんな中、テレビから、福島第一原発事故発生の報道が流れた。

 遼太は、凄惨を極める爆発に背筋が凍りついた。

「あなた、あなたの大学時代のお友達、彩香さんや流水さんは大丈夫なの?」

 佳織には、結婚前に一度だけ彩香のことについて触れたことがあった。

 佳織の投げかけた言葉は、遼太が最も気に留めていることであった。

「確かめる術はないの?」

 遼太の心の内を透かしたような問いかけであった。

 遼太は、激しいショックで、その日の食事はのどを通らなかった。

 その日から、連日放映される報道に、遼太は被災された人々の安否を祈り続けた。