このように、足久保(静岡県静岡市足久保。静岡茶発祥の地とされる)の茶のようなことを吐き散らし、やがて江戸へとやって来た。

 神田八丁堀の路地にある小さな借家に住んで、少しの貯金があるのにまかせて、江戸前の旨い魚に舌鼓を打ち、豊嶋屋(2023年現在も会社として存続する豊島屋)の剣菱(江戸時代に流行した銘酒)の酒樽をいくつも空け、空き樽は長屋の手水桶に配るほどである。そうしているうちに、ついに有り金を酒代として飲みつくしてしまった。

 これではいけないと、(静岡から連れてきた愛人)鼻之助に元服させて喜多八と名乗らせ、それ相応のところへ奉公に出すことにした。すると、喜多八はもとより才覚があったものだから、奉公先の主人に気に入られ、たちまち小銭が貯まるような身分となった。

 弥次郎は故郷で習い覚えた油絵(密陀絵のこと。漆に装飾する絵。かつて静岡名産であった)などを描くようになったが、その日暮らしのように精米を必要な分だけ買い、ひきわり納豆、あさりのむき身などを、行商から呼び込んでそのまま食べてしまえば、びた一文も貯金は残らない。田舎から着続けたままの半纏から綿が出ていても、洗濯を気にしてくれる人さえいない。

 このような弥次郎の酷い暮らしに、近所の飲み友達が寄り集まって、さるお屋敷の奥座敷に奉公していた年増の女を紹介して、弥次郎兵衛にあてがってやった。すると、われ鍋にとじ蓋のような似合いの夫婦となった。女は狼の口が開いたような着物のほころびも縫ってやり、人に頼まれたような仕事でも、何でもこまめにしてやった。弥次郎を大事に気に掛ける、女房のありがたい心がけに、弥次郎も夜は早く寝て、ずいぶんと人の心を取り戻したような暮らしをするようになった。このような暮らしが十年ほど続いたが、山芋が鰻になることは無いように、相変わらずの貧乏である。

 そのうちに、あまり深く考えないような気性であるから、金も無いのに色々としゃれ込んで、近所の怠け者が遊びに集まるようなところとなってしまった。流しにはいつも五合徳利が横になっており、三味線の音はべこべこと鳴る。(音痴の音を聞くと味噌が腐るという俗説があるから)味噌桶のふたを開けることさえできない。

 

※岩波文庫「東海道中膝栗毛」麻生磯次校注1973年33~34ページ参照。

※今まで「弥治郎」表記だったものが、「弥次郎」表記になっています。原文のせいか、参照した本によるものかわかりません。

※「剣菱」について、校注の麻生磯次さんによると「江戸時代に流行した銘酒の名」とのこと。灘の蔵元で今も続く蔵元「剣菱」のことか、もっと広い意味で使われていたのか?分かりませんが、当時は酒と言えば「剣菱」だったようです。酒屋の豊島屋が今も残っているんだから、剣菱も今も受け継がれている剣菱と考えていいのかも。

※江戸時代の「油絵」は、有名な天才発明家平賀源内が描いたものくらいで、あまり一般的ではなかったと思います。校注の麻生磯次さんによると、ここでいう「あぶら繪」は、漆絵の一種、密陀絵のことだそうです。静岡県の漆文化は、1634年の浅間神社造営後、初期には密陀絵が施され、1814年に信州の旅人から蒔絵の技法が伝えられたそうです。今に続く駿河漆器の基礎ではないでしょうか。

※弥次さん、男の愛人を連れ帰ったと思ったら、女の女房と数年連れ添います。どっちもイケる人なんでしょうかね。