「武蔵野の尾花がすゑにかかる白雲」(続古今集にある源通方の歌)と詠まれたのは遠い遠い昔のことである。

 海沿いの簡素な小屋で、鴫(シギ)が飛び立つような水辺を夕暮れに愛でているような、仲の町(吉原)の賑やな夕暮れを知らなかったときのことである。

 今では、井戸の中に鮎がいるような水道の水が長々と続き、土蔵の白壁が建ち連なり、漬物桶、開いた俵、破れた傘の置き場所まで地主がただでは貸してくれないないような、大江戸の繁盛ぶりである。

 地方から見ると、まるで大通りに金銀がまき散らしてあるように思われるくらいであるので、何とかひと稼ぎしようと志して上京してくる者は、幾千万と限りない。

 その中に、駿州府中(現在の静岡県静岡市葵区、府中宿のあったあたりか)栃面屋(あわてもの屋)弥治郎兵衛という者がいた。親の代からそれなりの商人であり、百二百くらいの小判にはいつでも困らないくらいの経済状況であったが、安倍川町(現在の静岡県清水市葵区にあった二丁目遊郭という広大な遊郭のことか)の色気と酒にはまり、その上旅役者華水多羅四郎(鼻水垂らし郎)お抱えの鼻之助という男に入れ込んだ。

 そして、この男色の道に孝行するように尽くしていこうと、まるで、親孝行で有名な「二十四孝」の黄金のカマを掘り出した郭巨のような心持で悦び、バカの限りを尽くし、しまいには手持ちの金まで途方もない穴を限りなく掘り開けてしまった。

 こうして、弥治郎兵衛の尻の仕舞は若者と二人、尻に帆をかけるように着物をたくしあげて、静岡府中の町を駆け落ちすることとなった。

 (歌)借金が富士山くらいあるものだから、そこで夜逃げをするスルガ(駿河)者であるよ。

 

※岩波文庫「東海道中膝栗毛 上」麻生磯次校注 32~33ページ参照。

※「二十四孝」は中国で元の時代に郭居敬という人物が編纂した書物。その中に下記のような話がある。

貧乏な郭巨は食べるものが無いため、「母は二人といないが子供はまた出来る」と言って子供を埋めに行ったところ、「親孝行な郭巨に授ける」と書かれた黄金の釜を掘り当てた。(wikipedia参照)

現代では、なかなか同意の得られない考え方なのではないかと思う。