鬼門や関外(中国広西省にある関所)を遠いと言ってはならない。五十三箇所の宿駅、全て皇州なのである。という山谷(宋の詩人黄庭堅)の詩によって、(慶長3年に)東海道を五十三次と決めた、ということを聞いたことがある。

 私はこの東海道に筆をはせて、膝栗毛の書物を著す。

 もとから私は野生のじゃじゃ馬のような性分ではあるが、私のような人を食ったような馬にも性の合う出版社がいて、太鼓を叩いて宣伝してくれたため、幸いに私のような馬にも乗り手がいて、冊数を重ね、乗り継がれる馬のように長編となり、京大阪から安芸(広島)宮島までの長丁場を経て、帰りがけの御駄賃に、今年続五編を出し、木曽路(岐阜県)に至ることとなった。

 弥次郎喜多八の名は、まるで外国の龍馬のように、千里も遠くに名を轟かせたので、彼らの出自を問う人もいる。そのため、今一度この話の発端を書き記し、江戸を旅立つ話の前書きとする。

 遅ればせながら書き出す話だが、馬の耳に風が吹いて乾くような古い趣向ではない。とって置きの話を棚卸してご覧にいれよう。

 于時文化甲戌(文化十一年)十返舎一九志

 ※岩波文庫「東海道中膝栗毛」麻生磯次校注(1973年)29ページ参考。

 ※「馬の耳に風もひかさぬ趣向」は、「馬の耳に風」という古い諺があったそうです。