plumです。

 

53歳、主婦。

 

虚弱体質だったわたしの、幼少期からの半世紀を書いています。

 
 
 

 

 

 

 

たった一週間の入院の話とは思えぬほど、密度の濃い日々。

 

最後の三日ほどは「口を開ける練習」にいそしみ、ようやくなんとか4センチ開けられるようになって

 

 

いよいよ退院拍手

 

 

予定通り、ちょうど一週間でした。

 

顔の腫れもほとんど引いて、退院したらすぐにふつうに動く気満々。

 

母に迎えに来てもらい、車で家に帰ります。

 

 

同じ「入院→退院」でも、中学時代のあの『意味があるのかないのかよくわからない入退院』と違い、外科的なものはハッキリしていて清々しい。

 

 

 

夏休みに入ると同時にすぐ入院だったので、まだ夏休みは1か月以上あります。

 

この夏休みは、半年後に行われる「学内リサイタル」の練習に明け暮れようと決めていました。

 

このリサイタルは学内とはいうものの、一人で4曲くらいを演奏するもので、メイン曲には超難曲を選んだため、コツコツと早くから練習を始めないと。。。

 

 

そこからは毎日、大学へ通って練習をしていましたが、これがまた、

 

 

公立大学の悲哀

 

 

で、夏休み中はエアコンが入らないという、今では考えられないルールでした。

このころの公立の建物というのはほんとにお役所仕事で、エアコンもきっかり9時ー17時しか入らない。

しかも、ちょっとズルして?実際には16:50くらいにはピタッと切れてしまう。

 

 

今でもよく覚えていますが、わたしが研究生だったこの平成5年は

 

 

まれにみる冷夏

 

 

でした。

 

この年はほんとうに雨が多く、今のようなすごい猛暑ではないものの、防音完璧な練習室でエアコンなしというのはさすがに暑い。

 

音がうるさいので窓を開けられないし、打楽器の部屋は広大な部屋でしたが、電気が「ハロゲン」「蛍光灯」と2種類あり、仲間内で

 

「この、ハロゲンのほうをつけるとより熱い気がする」

 

と、真偽は定かではない検証をして、ハロゲンのほうをつけないようにしたりしましたが、こんなことは焼け石に水で、5分と集中できないほど暑い。

 

このころは今ほど熱中症という言葉も一般的ではなく、あくまで知られていたのは日射病。

太陽の下以外は暑さに気を付けるという観念がありませんでした。

 

 

5分だけ集中してガーっと叩いては

 

 

ダメだアセアセ 暑いタラー

 

 

と部屋を出てロビーで休む、、、を繰り返す。

ロビーに出たからといって涼しいわけではないのですが。

 

 

 

なんかこの夏以降、ちょっとまた体調不良になることが多くなってきた気がします。

 

今思えば、こんな熱中症まっしぐらなことをしていたせいかもしれません。

 

 

当時はそんなことに思い至らず、若さだけで乗り切って、練習以外はとにかく遊びまわっていました。