この夏で結婚11年目。主人の実家に同居をしてから、5年の月日が経った。


同居する当初、私は同居に大きな抵抗を感じていた。


その理由の一つは、
私自身が、私たち夫婦と子どもに、義理の両親、祖父母から干渉されたくない。

もう一つの理由は、
主人の祖父と、父との仲が、あまり思わしくない。
ということだ。


主人から、同居の話を打ち出されて半年間、抵抗を重ね渋っていたが、私の友人に強く背中を押されたかたちで、腹を決め、同居に至った。


主人の家族たちは、今ある家族の形態に、元他人と言いたいが、嫁である私や孫が転がり込んでくる状態で、
実際、同居してみると、主人の家族たちは、まさか受け入れる立場である我々の生活に影響が及ぶとは考えていないようだった。


2,3日なら、生活が少し変わっても、私たちをお客さんのように考え、接していた彼らだったが、どんどん日が経つにつれ、私たちの生活スタイルに対し、不満や苛立ちを募っているようだった。
例えば、お風呂の入り方、トイレの使い方、ドアの開け閉めの音、廊下の歩き方、言い出せばキリがないが、特に、義理の祖父と義理の父は、家の使い方に関して細かいのであった。


それぞれ言い分はある。
義理の祖父は、自分がサラリーのお金をつぎ込んで建てた家(実際はそうではないが、そう思い込んでいる)で、自分が建てた家を、他の誰かから粗末に扱われるのは許せないのである。

義理の父は、そんな祖父に日頃から、家の使い方対していちいち怒鳴ってくるので、怒鳴られないようにするため、神経を尖らし、生活をしているのだ。
私たちのせいで祖父から怒鳴ってくることがないよう、家の使い方に細かくなるようだ。


不満や苛立ちを募らせていた義理の父は、あることをきっかけに私に対し、ブチ切れ、今までの不満のたけを怒りを込めて言い放った。
また、義理の祖父からは部屋に呼び出され、自分の息子夫婦の批判、我が夫の批判をさんざん聞かされ、いつか来るであろうと思っていた、主人の家族からの洗礼をことごとく受けたのであった。


当時、私の思っていたことは、
「受け入れる側は、いいよなぁ」
「嫁は、この家族中で一番の他人なんだぞ」
「私は、この家族の中で一体なんなの」

と自分の居場所がわからず、引越しする前に住んでいたマンションにいつか帰れると本気で思っていた。
当時3歳になる娘にも、「あのマンションに帰りたいね」とよく愚痴をこぼしていた。


それでも、この5年、何とか同居を続け、今ではとりあえず仲良く暮らせていけてるのは、
姑の存在と、子どもたちの存在とそして、主人の存在と信仰心があるからだ。


姑は、この家族の中ではキーパーソンであり、いつも神経質な夫に対して、イライラしないポイントを押さえ、また祖父に対する対応の仕方をよく存じているのである。
姑をそばでみて感じ取れるのは、この祖父母から主従関係を強いられ、私以上の苦労人であることがわかった。
しかし、本来もっている前向きな考え方、また姑の両親はとても温かく朗らかな人柄であり、家が商売をしていたので、幼いときからいろんなお客さんと出会い、人との接し方、捕らえ方を学んでいたようだった。
また、元来、あまり深く物事を考えないようにしている性格が、うまくこの祖父母や夫と付き合えているように感じた。


子どもたちは、孫からの影響で、義理の祖父母や義理の父は、だいぶ穏やかになったように思う。
子どもたちから与えられる微笑や愛情は、憎しみや不満、苛立ちを忘れさせてくれるようだ。子どもの存在は、心を豊かにさせてくれた。
実際は、子どもたちのほうが、大人になってくれている場面が多い。苦労させているが、人の人生とは、心の豊かさとはどんな事を意味するのかを身内を通して学ばせてもらっていると思う。


私にとって主人の存在は、唯一この家族の中での居場所である。
私にとって、夫婦は言わなくてもわかるだろうというのは、ありえないのである。
相手が何を考え、どんな気持ちになっているのかがわからないから、不安になり心配になるのだ。だから私は、主人が今、私に対し何を考えているのか、どんな気持ちを持っていてくれるのか、そう思ったときは、必ず確認するようにしている。悶々と一人で考え、悩んでいるよりか、早く解決をしていることの方が、私の心は幸せだと思っている。


信仰心は、私にとって主人の家族とはどういう存在かを意味づけ、そして人としてどう接し、自分の人生を歩めばいいのかを導いてくれている。
我が愛する夫と出会うには、その命をつないでくれた主人の両親と祖父母がいなければ、成立しないのであり、大切な子どもたちとも出会うこともできなかったのだ。
そして、子どもたちからすると、主人の祖父母は、とても身近な先祖にあたるのだ。


命をつないでくれたことへ感謝。そう思うことで、私は自分を励まし、やってきたのだ。


家の庭先に、同居した日に植えた柿の木がある。
今年になって、初めて実がついた。
まだまだ、青いが、主人の家族に仲間入りした私が、何か実を結んだ兆しではないかと勝手に思うのであった。



こころの手帳-柿の実

今年に入り、ブログが書きたくなった。

そう思ったのは、
いつも心にいろいろ感じることがあるのだが、自分が一体何を考えているのか、何を感じているのかをわからないまま、無意識にやり過ごし、あっという間に日々が過ぎていってしまう。


私の性格は、自分に対して勝手な制限を設けたり、人の思惑を感じ、疑心暗鬼に陥ったりしている。
それには、それなりの理由があるのだが・・・
心の中では、正当性を貫こうとする自分と、なんに対しても否定的な自分との大戦いをしていたりする。


自分自身を客観的に感じ、私という存在は、実は、いろいろな側面がありそれを改めて発見したい、どんな自分も受け入れ、個としての自分を構築したいのだ。


とにかく、ブログを続けるところからはじめよう。。。