『A Pale View of Hills』を原書のペーパーバックで、80ページほどまで読んだ | 創作ラボ2

『A Pale View of Hills』を原書のペーパーバックで、80ページほどまで読んだ

カズオ・イシグロ氏の作品は、『日の名残り』、『私を離さないで』を翻訳で読んだ。

 

そして、今、『A Pale View of Hills』を原書のペーパーバックで、80ページほどまで読んでいる。

 

カズオ・イシグロの処女作長編小説である。

 

『日の名残り』、『私を離さないで』と同じく、過去の記憶を辿って、書くパターンは、処女作から見られる。

 

『A Pale View of Hills』は、『浮世の画家』と同じく、日本が舞台になっている。

 

日本が舞台なら、英語でも読めるだろうと思ったのだが、その思いは間違っていなかった。

 

会話文が多く、比較的、日本人にも分かりやすい英語を使っていて、私の英語力では、分からない単語は、一ページに、2、3個程度しか出てこない。

 

ほぼ、辞書なしで読める。

 

まるで、日本の高校生が読む事を想定して書いたのではないかと思ってしまう。

 

過去と現在の物語が交互に語られる。

 

場面が現在なのか、過去なのか、誰と会話しているのか、混乱する場合がある。

 

全体的に、静かなトーンで、活劇的な場面はない。

 

長崎で戦前に生まれた日本人が、英語で語っているのはどうも違和感を感じる。

 

名前が、漢字ではなく、アルファベットで書かれていると、日本人の名前には思えない。

 

主人公の『えつこ』は、どういう漢字を書くのだろうか。

 

『えつこ』の夫とその父が、『チェス』をする場面があるのだが、『チェス』ではなく、将棋だろうと思う。

 

翻訳本ではどのように訳されているのだろうか。

 

カズオ・イシグロ氏は日本人ではあるが、日本での教育は受けていないし、日本の文化・習慣も知らないだろうと思う。

 

作中には、お辞儀をする場面が何度も登場するが、日本人はやたらとお辞儀をすると思っているらしく、『相槌』と、『頷く』をお辞儀と取り違えている場面があるように思う。

 

翻訳本では、すべて、『お辞儀』と訳されているのだろうか。

 

英語は攻撃的な言語で、それが現れるのは会話である。

 

会話が全体的に、心がないというか、相手を思いやっていないというか、無機的に感じられる。

 

会話がやさしくない。

 

翻訳本では、もっと、日本語らしく訳されているのだろうか。

 

『えつこ』の近所に住んでいる、『さちこ』という女性の小学生の、『まりこ』という子供には、『さん』づけで呼んでいるのに、『まりこ』という女性は、『まりこ』と呼び捨てにしている。

 

ふつうは、『さちこ』に、『さん』をつけて、小学生の子供は呼び捨てか、『ちゃん』にする。

 

カズオ・イシグロ氏が日本語と日本文化を十分に理解していないから、日本人からすると違和感を覚える。

 

この作品には、日本人の目からは、違和感を感じる部分があるが、違和感ではなくて、はっきりと間違っている部分を見つけた。

 

それは、本の印刷である。

 

『えつこ』と『さちこ』が会話している場面から、次のページで突然、場面が全く変わってしまう部分がある。

 

主人公の、『えつこ』がまるでワープしてしまったかのように、別の人物と対話を始める。

 

何度もその場面転換のページを読み返しても腑に落ちなかったが、そのページの最後の行まで読んで気が付いた。

 

ページの行数が場面転換の起こったページだけ、二行分短くなっていた。

 

これは、印刷ミスである。

 

場面転換する場合は、二行程度、行をあける。

 

その印刷ミスのページは76ページ。

 

そのページは二行分、ページの最初に空白のスペースがなければならない。

 

私の本だけのミスプリントだろうか。