青い手紙 7
狭い玄関と、毛足の短い絨毯を敷いてある部屋とはほとんど段差がなかった。車椅子で外に出るために、段差をなくしているのだろう。
私は、靴を脱いで部屋に上がった。
「畠山さん」と、私は車椅子の人物のすぐ背後から、もう一度名前を呼んだ。眠っているとしても、耳のそばで声をかけられたら、目を覚ますはずだ。
しかし、何の反応もなかった。私は、車椅子の前に回って、車椅子の人物の顔を見た。
口が少し開いて、目は閉じられていた。目の下には大きな皺がいくつか重なっていた。顎の筋肉は垂れ下り、頬には、黒いしみのようなものが何か所もあった。
額には、幾筋もの皺が並んでいた。ついさっき、水風呂から上がってきたかのように、顔色には暖かい温もりが感じられなかった。どう見ても、健康な人間の顔ではなかった。冷たいものが私の首筋から背中に降りて行った。
明らかに、車椅子の人物は呼吸をしていなかった。棺桶に入った死体は何度も見たことがあったが、車椅子に座ったままの死体を見たのは初めてだった。
1時間ほど前にこの人物は私に電話をしてきた。ということは、私がここに来るまで間に、この人物は死亡したということだ。私には納得がいかない。玄関のドアには鍵はかかっていなかった。それも納得がいかない。
私は、車椅子の人物の右頬にそっと触れてみた。冷たかった。10分や、20分前に死亡したのであればまだ少しは温もりがあるはずだ。
車椅子の人物の顔をじっくりと観察したがどこにも外傷はなかった。首を絞められたような跡もなかった。体に何かの痕跡があるかもしれない。
腰から下には毛布が掛けられていた。その毛布を剥ぎ取ろうとして、私は手を止めた。死亡した現場には手は触れてはいけない。よけいな場所に触れてあちらこちらに指紋をつけるのは良くない。
そう思った私は、上着のポケットからコンパクトデジタルカメラを取り出した。デジタルカメラは商売道具の一つだ。いつも持ち歩いている。
現場の写真を撮ろうと思った。車椅子の人物は正面、横、背後のいくつかのアングルから撮った。顔の正面のアップも必要だ。
部屋の家具の配置もいくつかのアングルから撮った。箪笥の引出しの中も点検するべきかどうか迷ったが、右手にハンカチを持って引出を開けた。衣類と、薬のようなものがあった。それらをデジカメで撮った。そして、慎重に箪笥の引出しを元に戻した。
押入れの戸も開けて、中を点検した。布団と、毛布と、コタツと掃除機があった。それも写真に撮った。
風呂場と、トイレに続くドアも開けて、内部の写真を撮った。とくに何も変わったことはなかった。
後は、キッチンの食器棚を点検してみた。ありきたりのものしかなかった。
流し台の上に水が半分入っているコップがあった。その横には、薬が入っていたと思われる小さな袋があった。それらも写真に撮った。
キッチンの片隅にある小さな冷蔵庫のドアも開けてみた。食材らしきものはほとんどなく、ペットボトルに入ったお茶と、缶入りのコーヒーと、薬の入ったビンのようなものがあった。冷蔵庫の内部も写真に撮った。
私は、あることを忘れていることに気がついた。手紙がどこにも見当たらないのだ。電話で依頼者は、手紙を届けてほしいと言った。その手紙はどこにあるのだろう。そんなものは最初からなかったのだろうか。
私がまだ点検していない場所があった。それは、車椅子の人物の毛布がかけられている下半身だった。
私は、そっと毛布を剥がしてみた。
今にも折れそうな、やせ細った皺だらけの左手には、青い封筒が握られていた。どうすべきか迷ったが私はその青い封筒を左手から引き抜こうとした。
しかし、なかなかうまくいかなかった。指は封筒を握りしめたまま、固まっていた。封筒が皺になっても仕方がない。力まかせに封筒を死体の左手から引き抜いた。私は青い封筒を上着の内ポケットに入れて、毛布を元の通りにかけ直した。
もう一度、部屋を見回した。他にやるべき事がないか考えてみた。写真に撮るべきものは撮った。あとは、一市民として、警察に通報するだけだった。
私が携帯電話を取り出して、警察に電話しようとした時に、玄関のドアをノックする音が聞こえた。