いつもと違う
いつも降りる駅よりは、一駅手前で彼女は電車を降りた。
アパートまでは30分くらいは歩く必要があった。
時刻は、午後10時を少し過ぎていた。
街灯はついているし、とくに暗い場所はないようだったから、彼女はほとんど不安を覚えることもなく歩くことができると思っていた。
実際のところは、この時刻にこのあたりを歩くのは、彼女にとってははじめての経験だった。
彼女の左手には線路が見えていた。彼女が歩ている道路の右手には、背の低いコンクリートの建物と、民家の連なりが見えていた。大きな声出せば、誰かにきこえるだろう。
前方には、彼女がいつも降りる駅の明かりが見えていた。彼女のアパートまで、あと10分もかからないだろう。
その時だった、彼女は、背後の足音に気がついた。
足音は彼女の歩く速度よりは速くなかった。彼女は背後の足音をやり過ごそうとして、歩く速度を少しずつ遅くした。しかし、背後の足音はぴったりと彼女の歩く速度に合わせた。
不気味だった。彼女は早くアパートの部屋帰ろうと思った。しかし、このままアパートに帰ってしまうと、背後の何ものかに、彼女のアパートの場所を教えることになってしまう。
彼女は、まっすぐにアパートには向かわずに、線路沿いの道路から脇道に入った。もし、背後の何ものかが彼女のあとをつけているのなら、彼女と同じように脇道に入るはずだ。
背後の足音は脇道に入ってきた。やはりそうだった。彼女は全身の血が抜けていくような恐怖を感じた。脚が震えて、うまく歩けなかった。
まわりには民家があるから、何かあったら、叫んでみればきっと誰かが家の中から出てきて助けてくれるはずだと彼女は思った。恐れることはないのだ。
こうなったら、背後の何ものかの正体を確かめてみようと彼女は決意した。
彼女は突然、立ち止まった。そして、ゆっくりと振り返った。
そこには、誰もいなかった。
彼女の耳に聞こえていたのは、彼女自身の足音だったのだ。
いつもと違うことをして、一駅手前で降りて、アパートまで歩いて帰ろうとしたために、彼女の深層心理の恐怖心が、幻聴を引き起こしたのだ。
いつもと違うことはしないほうがいい。