安全なはずだった
車より、飛行機より、鉄道よりも、船は安全なはずだった。
船の衝突事故というニュースはほとんど聞いたことがなかった。
船は、確かに安全だった。しかし、彼自身が安全ではなかった。
夜のフェリーのデッキを散歩してみようと彼は考えた。
夜風は微妙に潮の匂いを含んでいた。
潮の匂いは決して不快なものではなかった。あまり大きなフェリーではなかった。ほんの数分でデッキを一周することができた。
デッキは二段になっていた。一段めのデッキを一周した彼は、二階のデッキに上った。そこは、一段目のデッキよりもさらに狭かった。
昼間なら、乗客が何人もいるのだが、今は彼以外にいなかった。
この二段目のデッキからは、昼間なら海がよく見えるばずだ。
彼は、デッキの周辺の鉄製のフェンスの一番下の部分に脚をかけて、海を見ようとした。
夜の海はあまりに暗くて、海面のうねりがかすかに、フェリーの客室の窓から漏れる光によって見える程度だった。
そのかすかな光の中に何か見えたように思えた。
大きな魚の影のようだった。
彼もっとよく見ようと思って、フェンスの上から見を乗り出し、上半身を前方に傾けた。その次の瞬間、彼のシャツの胸のポケットから携帯電話がするりと抜け落ちた。
反射的に、フェンスの最上部をつかんていた両手を離して、空に浮いた携帯電話を追いかけた。
彼の身体もあっさりと宙に浮いて、一段めのデッキの舷側の通路の上に頭から落ちた。そして、動かなくなった。
船の衝突事故は少ないが、船の上での事故は衝突ほど少なくはないのである。