なんとなく、自分の年を顧みると今更ではあるけど、世の中には私生活における、

コスト(費用)について、本質を間違えているとか全く考えた事がない人がたくさんいる感じがします。

私も明確に言語化するに至ったのも、明確に自覚するに至ったのもついこの間ではあのですけど。

 

究極的には人による、と言うのはある意味確かにその通りではありますが、

その「人による」中でも、結局、自分が何の為にそれをしているのか分からない(つまり自己不明による勘違い)を抜かせば、

本質においてはそこに過ぎない、と言う風に話せる結論でありながら、しばしば次にあげるような勘違いされている事が多いのは、

 

1、コスト(費用)とは金銭、または、所有物の損耗である

2、コストを支払う事によって我々が得ている物は物である

 

の2点であると思われます。

これは実際には即物主義とかの一つの物に通じていると思われますが、

しばしば他人に忠告として「それに支払うのは無駄」と言う意見を言う人を見ると、

ほとんどがこのような考えを土台にしているのが見て取れます。

(相手の価値観に立って、だからこそ無駄であるという人もいるでしょうけど、それはまた別枠です)

 

では、逆に何がこんなに違和感を覚えるのかというと、割としっかり言葉にされているのを見ない気がする。

ある程度婉曲な表現や、逆張りのような理屈ではそれなりに理に叶った反論も多数見かけるのですが、

指針とするには少々違和感が残ったり、後から後悔するような場面が多い理屈も多く、実際私も後悔をしてきた訳です。

では、これら二点の正しい回答は何かとなると、

 

1、コストとは拘束・不足・束縛などの「不自由」の事

2、コストを支払い我々が得ているのは「体験(経験ではありません、また、しばしば他者の体験の為に支払われる場合もあります)」

 

でしょう。

コストを支払い得る物も世の中には錯誤させる情報に溢れていますが、

コストとして支払っている物の隠匿は尚更巧妙にされていますが、

これらの行動とその結果得ようとしている物を注視すればこれに集約されます。

まぁ、何故こんな事を今更言うのかというと、上記の価値を無自覚に肯定している側も、

その無自覚の肯定による違和感から行動を否定される側も、お互いポイントが認識出来ておらず、

結果として、会話のすれ違いにより、お互い不愉快な思いしかしていない場合が多いからです。

「自分にとって必要だから言った」とかとは違い、善意で言った事が何故すれ違うかと言えば、

どちらかの理屈、または双方の理屈が理に叶っていないか、相手の状況を正しく把握出来ていないからでしょう。

 

ソーシャルゲームなどへの課金も、しばしば物が残らないとか、遊びでしかなく生きるのに役に立たないから無駄という人がしばしばいますが、

旅行やおいしい食べ物は共に双方の条件を満たしますが、上記のように言う人もほとんどの場合、それを無駄とは糾弾しません。

そのような糾弾はあくまで権威による承認に無思考に追従しているだけでしかなく、狭い視野で一貫性もなく道理も通らない理由で他者を否定すれば、

それは敵として戦うのではなく、蔑視され、馬鹿にされ無視されるのも仕方ないでしょう。

とはいえ、ソーシャルゲームなどに大金をつぎ込む人の多くが安心して見ていられるほど行動に一貫性と道理が通っているかと言うと、そういう訳でもありません。

要するに、どうも双方に違和感があった訳ですが、その理由は自分が「何を支払って」「何を得ているのか」を勘違いしているからだった訳です。

または何を支払っているか、何を得ているかを錯誤しているのを気が付いていない、などもありますね。

 

このような錯誤は残念ながら現代社会においては「システム」「モデル」である程度意図的に行われている事なので、無思考でいれば錯誤は必然とも言えます。

なので、まぁ、一度何か決定を下す前に、その視点から物を考えた方が良いのですが…。

旅行や食事を肯定しながら、ソーシャルゲームへの課金に疑義を呈する方も、そういう意味では感性としては大きく間違えではなく、

基本無料アイテム課金などのゲームは、直接的に体験に金銭を支払わせておらず、不足や不満を残す事でそこに金銭を払わせているわけですが、

特にガチャに類する課金方法は、ここの錯誤性が大きく、また、期待した通りの結果が出にくいものです。

そもそも不足によるストレスで意図的に求めている体験への認識錯誤を起こされた結果を求めているので当然と言えば当然ですね。

また、認知的負荷の問題もあり、なかなか過去の行動の誤りを認めたくない気持ちもある為、

表面だけ説明されても無理矢理動機を一致させてしまう為、難しいと言うのも、「いや、貴方は多分後悔する側の人だと思うよ」と言う人にはあると思います。

 

他の物でもしばしばありますが、物を買うと言う事の本質も結局は「何の体験を買っているのか」にすぎません。

おいしくない食事は生きる為の物だと言っても、「生きている」事自体が一つの体験ですし、

「生きていたくない」上に「他の希望の芽もない」となれば、死ぬの自体は怖くないという人も多いでしょう。

むしろ希望がなく苦痛しかないとみるからこそ「生きていたくない」となる訳です。

その辺りを見誤ったコストの支払いは、「自分の感覚が変わった」とは別の理由で「不要だったと気が付く」ので、

最後には高確率で疲れ果てて後悔するので、何か物が欲しくて時間やお金などのコストを支払う場合は、「自分はこのコストでどのような自己の、または、他者の体験を買おうとしているのか」「その目的に叶ったコストの支払い方か」を考えた方が良いと思いますし、

他人のコスト支払いに違和感を覚えたなら、そのような視点から「非効率である」「欲している体験を勘違いしている」など、具体的に指摘する方が役に立つと思われます。