「サムダルリへようこそ」を5回見終わって、

温かい人々のストーリーもよかったけど、

毎回泣けたのは、コ・ミジャの気持ち。



サムダルリを見た気持ちを先日ソウルの息子に話したら

一緒に泣いてくれた。


それまで口に出したことがなく、

心の奥底に仕舞っていたことを、

サムダルリが開いてくれた。

話したことで、癒しになった気がするから、

自分のために、記録しておこうと思う。


個人的なことで、少し長いけど、よかったら読んでください。


私は商社に勤める父の赴任で

小学校1年から中学1年の途中までずっとスペインで暮らしていた。


スペインで外人と呼ばれていたのに、帰国した日本でも外人と呼ばれ、

日本の中学校生活に馴染めずにいた私に

自然な付き合いをしてくれた親友ができた。

中学、高校、大学、大人になっても付き合って、

隣の市に住んでいたから、

鎌倉の夫の店へ髪の毛を切りに来て、私の家によく泊まりに来ていた。


そんな彼女が1990年に六本木のアマンドの横で交通事故に。

頭を強く打ち、いつも頭痛の後遺症と目の焦点を合わせづらくなり、

やっていたフランスと日本の美術館橋渡しの仕事もやめなくてはならなくなり、

医師の診断に疑念を覚えるようになり、

親兄弟と不仲になり、

精神的にどんどん不安定になっていき、

睡眠剤が増えていくのを心配しながら見守るしかなかった。

丁度私の娘が2歳から6歳くらいの、手がかかる時期。

私は外資系で働いてたから、出張も多かった。


1995年1月15日から私は大阪へ出張して、翌日1月16日、夜遅く帰宅。

携帯電話もない頃で、家電に折り返し電話がほしいという留守録が彼女から入っていたけど

遅かったから翌日電話しようと思って寝てしまった。


117日の朝、テレビで昨日いた大阪が焼けているのを見た。

阪神淡路大震災。

その日、折を見て彼女に何度か電話したけど、繋がらず、

3日後に彼女の死亡を知らせる電話がかかって来た。

睡眠剤の過剰摂取によるもので、

私への電話が最後だったと思われた。


仕方ないと頭ではわかっていながら、

出張しないで、電話に出ていたら救えたのではないか

夜遅くても、帰宅した時にすぐ電話をかけていれば間に合ったのではないか

そういう後悔がずっとあって、

大震災で亡くなったわけではないけど、毎年1月17日は辛い日。


誰かを恨みたい彼女の家族が

止められなかった私に向ける気持ちをずっと受け止めて生きてきた。

その家族も昨年最後の1人が他界したと聞いた。


全然背景は違うけど、

通夜に来るなと言われて、

お別れもできなかったあの時を思い出して、コ・ミジャに泣かされた。


あれからもうすぐ30年。

今年は高齢者となる年。

もう新しいことはないと思ってたけど、

また一歩、新しいことに踏み出そうと思う。

悩んでいた時に、

ソウルの息子が手帳に書き留めていた言葉を見せてくれたから:

「全ての出来事には始まりがある。

そしてその始まりには発端となるきっかけがある。

そのきっかけを作ったのが自分であれ、他人であれ、

始まった瞬間に人生の方向が生まれ、

積み重なり、形作られていく。

その全ての始まりほどの強烈な偶然と運命が他にあるだろうか…」

(ドラマ「キムサブ」より抜粋したらしい)


いつか来る終わりの時に

楽しかったと言えるように、

この偶然と運命を大切にしよう。

と、思う2024年。