上大崎1~4丁目
国土地理院地図に加工しました。
標高約5m以下のところは、縄文海進のときは海水が入っていたようです。
「約5,500年前の縄文前期中葉の海進頂期には、海水準は現在の標高4.4メートル、気温+2℃の世界が想定されている。」
「…この時代の海は、目黒川に沿って、少なくとも目黒区との境付近まで及んだことは亀甲橋のところでカキの化石が見出されたことから確かである。上昇した海面の高さは、海抜三ないし四メートルぐらいに達したであろう。いっぽう立会川に沿ってはほとんど海は入り込まなかった。」
一般的にピンク色は川跡(縄文海進時などは海面跡)で、緑に縦縞の箇所は湧水源になっています。オレンジ色は台地で淀橋台では下末吉面の上に厚いローム層があります。参考:品川区の地盤地形(1)総論
1.上大崎1丁目
Y字形の目黒川の支流跡があります。このY字型に囲まれた台地には寺院がたくさんあります。
台地上が標高30mくらいで、川跡は18から13mくらいですので、比高は15mくらいになります。
「増上寺子院群
『江戸名所図会』のなかの名所として記されていませんが、明治の地誌「風俗画報」東京近郊名所図会には、上大崎1丁目の増上寺下屋敷についての記載があります。
現在、増上寺子院群(ぞうじょうじしいんぐん)とよばれているところで、寛文(かんぶん)元年(1661年)麻布狸穴(あざぶまみあな)(港区)から移転してきた本願寺(ほんがんじ)・最上寺(さいじょうじ)・戒法寺(かいほうじ)・光取寺(こうしゅじ)・清岸寺(せいがんじ)・正福寺(しょうふくじ)・善長寺(ぜんちょうじ)の7ヵ寺に、高輪から移ってきた了福寺(りょうふくじ)の8ヵ寺でした。
正福寺・善長寺・了福寺は廃寺となり、正福寺跡には後に移ってきた常光寺(じょうこうじ)と、善長寺は隆崇院(りゅうそういん)と合併、また了福寺跡には宝蔵寺、昭和6年(1931年)には月窓院が移ってきて現在のような寺町となっています。(引用終わり)」
「常光寺」に慶応大学創設者の福沢諭吉先生の墓所跡があります。諭吉先生が自ら選定されたところだったようです。恐らく当時のこの高台から眺望する景色(南東方向に開けている)に心を奪われたのかもしれません。その後、改葬されたとのことです。
「生前、上大崎周辺を愛した諭吉の希望によって、当初墓所はこの地につくられましたが、昭和52年に菩提寺である港区元麻布の善福寺(ぜんぷくじ)に移葬されました。
上大崎の墓地跡には、『福沢諭吉先生永眠之地』の記念碑が建っています。
なお旧三田用水(玉川上水の分流で世田谷区北沢かた港区三田まで流れていた)が上大崎1丁目の北側を半円状に流れていたようです。」
水のない水辺から・・・「暗渠」の愉しみ方 第10回 台地の上の、水のない水辺 三田用水跡をたどる
2.上大崎2丁目
目黒駅は品川区上大崎2丁目にあります。また品川駅は港区高輪3丁目および港南2丁目にあります。
目黒駅はなぜ品川区にあるのか? 審議が入り混じった歴史背景を紐解く
さて上大崎2丁目はY字形を逆さ(南東向)にした台地上の地形になっています。
港区の地形地盤(3)目黒の自然教育園・白金三光町等からの流れ、旧玉名川
「(1)目黒にある自然教育園には湧水源と思われる川(湿地帯)(3箇所)が自然なままに残されています。そこから北側に流れ、外苑西通りのやや東側沿いに流れて狸橋辺りで古川に合流していたようです。
国土地理院の地図から標高を確認して見ると、自然教育園の台地部が約28m、湧水源の低地が19~15m、公園の北側辺りでも台地と川跡は約10mほどの標高差があります。この台地から川跡に下りる道は結構な坂道になっています。
(2)恵比寿にあるウエスタンホテル東京の南東側の山手線沿い辺りからの流れ、
この山手線沿いの低地と北側のホテルなどの台地の標高差は約10mあり、結構な谷地になっています。北東方向にカーブしながら流れ、自然教育園の北端あたりで(1)に合流します。」
この(1)が南東側の川跡(標高16mくらい)で、(2)が北西側の川跡(標高18mくらい)です。台地上の標高が28mくらいなので約10mの比高があります。
なおここには「白金長者丸」という地名がりあります。
「現在の白金の一帯は、平安時代から南北朝時代にかけて豪族の屋敷が点在し、 南朝の下級役人だった柳下上総介が1394年~1428年頃にこの地を開墾し、城館を 築いたと伝えられています。この柳下氏が大量の銀(シロカネ)を持つ長者であった ことから、「銀長者」転じて「白金長者」と称えられ、この一帯はいつしか白金村と 呼ばれるようになりました。 白金台の呼称は、白金の高台地域に由来しますが、1651年に現在の目黒通り沿 いに形成された町屋が白金村から分離して白金台町となり、その後1967年にいくつ かの町名をひとつにまとめて現在の白金台となりました。 白金長者とよばれた柳下氏の子孫は幕末まで白金台町の名主として続き、明治維 新後に三軒茶屋に移転していきました。長者の家跡があったと言い伝えられている 地は、現在の品川区上大崎一帯で、数年前までは長者丸の地名がついていました。 ちなみに白金の読みは銀の読みと同様に「シロカネ」とにごらないのが正式です。(引用終わり)」
3.上大崎3丁目
真ん中あたり川跡があります。西側の高台は「花房山」と言われています。
「現在の品川区上大崎3丁目付近の高台に相当する。名称は、明治、大正期の外交官である花房義質の別邸があったことに因む。」
真ん中の川跡の標高が約12mで、(東西の)高台が30m弱なので、比高約18mと結構な段差になります。東の高台の東側(首都高に沿うように)にも川跡があります。高台にはコロンビア大使館(西側)やタイ大使館(東側)があります。
4.上大崎4丁目
山手線の東側から目黒川低地沿いの下目黒1丁目との間の高台です。標高は30m弱くらいです。ここから目黒川低地の標高約5mまで一気に下がりますので、急崖になっています。
この目黒川崖線についてはこちらを参照ください。
ここには杉野学園があります。
「創立者 杉野 芳子
1892(明治25)年千葉生まれ。1907年に千葉県立千葉高等女学校を卒業後、1913(大正2)年〜1920年にニューヨークへ遊学。洋裁の知識やセンス、洋裁技術を身につけて帰国。日本における洋装の普及・定着と、服飾技術の習得による女性の自立をめざし1926年「ドレスメーカー・スクール」を東京・芝に開校。洋装を日本女性に合わせるために独自のドレメ式原型を考案、日本で初めて新聞に洋裁講座を連載、日比谷公会堂で日本初のファッションショーを開催するなど、日本の服飾文化とモードの創出の先導的役割を果たした。夫・繁一とともに、ドレスメーカー女学院を発展させ、教育、出版、デザイナーとしての活動を通して、日本の洋装文化の拡大に身を捧げた。(引用終わり)」
当時21歳でニューヨークへ遊学されるとは、先進的ですね。
参考:東京の地盤(GIS版)
柱上図は上段にある選択のアイコンをクリックし(水色の円が移動)、取得したい地点(黄色い丸点)でクリックするとPDF等で得られます。
参考:換算N値と地盤 スウェーデン式サウンディング試験換算N値と地盤(ジオテック�様)
https://www.jiban.co.jp/service/kouji/kouji02.htm
砂質土の場合はN値5以下が軟弱、粘土質の場合N値3以下が軟弱とのことです。
参考:ボーリング柱状図とは?
http://www.shimane.geonavi.net/shimane/boring.htm
上大崎1、3、4丁目は土砂災害警戒特別区域があります。



