『貝が語る縄文海進―南関東、+2℃の世界 (有隣新書) 松島 義章』を読みました。

概略は以下の通りです。
1.縄文時代の貝化石(貝塚含む)を分析すると、その堆積層に特徴的な貝の種類の化石が見つかる。貝については現在も棲息しているものがほんとんどなので、どの程度の水深か又はどのような環境状況(潟であるとか・潮の流れの強弱・塩分濃度など)であるかなどで、どのような貝が棲息できるか特定できる。
 各堆積層の貝化石の種類を調べると、その地点がどのような水深・環境であったかが分かり、それらを時系列的に並べると、そこの地形の変遷→地形発達史が再現できるようになった。
2.縄文海進は、最終氷期から関氷期に移り、今から1万9千年年前辺りから急激に海面が急上昇し(120mほど)6000年前くらいにピークになり(縄文海進、現在より約4m上昇)、その後やや下降し、微上昇・低下はあるものの現在とほぼ同じような海面になったようです。
3.現在より水温が2度C高く、黒潮や対馬海流は現在よりも北に流れて、関東地方は亜熱帯、北海道南部も温帯域の貝化石が見られる。
4.縄文海進により現在より多くの地域で入り江のような状況になった。貝塚の分布などでも確かめられる。

参考:縄文の海は、広かった!
http://nh.kanagawa-museum.jp/kikaku/ondanka/pdffile/wt_(1)v101.pdf
参考:広くて暖かだった縄文の海 松島義章
http://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/yurin_446/yurin4.html

上記の本の中で、古鶴見湾、古逗子湾、古鎌倉湾、古大船湾、相模川低地などのことが説明されていました。

●古鶴見湾
参考:古鶴見湾 http://shawkmitani.asablo.jp/blog/imgview/2007/09/05/3d202.gif.html
参考:大塚・歳勝土遺跡・横浜市歴史 博物館
http://www.asahi-net.or.jp/~pu4i-aok/walking5/kozukue/ootsukaj.htm
「鶴見川と早渕川は6000年前の縄文海進のころは古鶴見湾となっていた。鶴見川は広く、早渕川は狭い。(引用終わり)」
参考:新横浜周辺の歴史
http://www.geocities.jp/shinyokokun/rekishi2.html
参考:横浜マンション杭データ偽装事件、古鶴見湾、縄文時代は海だった
https://blogs.yahoo.co.jp/smqjt669/19706379.html

●古逗子湾・古鎌倉湾・古大船湾・相模川低地
 これらの元湾の低地には沖積層が堆積されているものと思われます。また古大船湾は細長い形で横浜市の柏尾町付近まで海水が侵入していたようです。また相模川低地は伊勢原の近くまで広く入り江になっていたようです。そういえば東海道線の藤沢辺りから平塚辺りまで平坦な地形になっていたように思います。
「古大船湾は江ノ島の北に河口をもつ片瀬川の支流柏尾川沿にできた内湾で、現在の片瀬川河口からおよそ16kmも上流の横浜市柏尾町付近まで、海水が侵入して誕生した幅が狭く細長い複雑な海岸線をもつ入江となっていた。」
「相模湾沿岸最大の相模川低地では、縄文の海が低地と台地や丘陵の境となる位置まで入っていた。 すなわち、藤沢から茅ヶ崎さらに寒川にかけては、現在の海岸線からおよそ3~6km奥の相模原台地の南縁に、相模川本流域では寒川町倉見[くらみ]と伊勢原市沼目を結ぶ線付近までが海となり、伊勢原台地でもおよそ8km入った台地南西縁に、大磯丘陵では東縁に海岸線が位置するまで広がった奥相模湾となっていた。 (上記「広くて暖かだった縄文の海 松島義章」より引用)」

参考図 http://www.geocities.jp/horiuchihiroe/academy16/a16k/a170124/a170124521.jpg
参考:震災に思う逗子・鎌倉の地形 ( 神奈川県 ...- Yahoo!ブログ
https://blogs.yahoo.co.jp/nakagawa0322/33163874.html
参考:逗子の研究
http://www.geocities.jp/belbell0/zushigaikyou.htm
参考:鎌倉の明応津波~大仏殿は流されたのか?
http://www.onken.odawara.kanagawa.jp/files/PDF/tayori/63/onkendayori63-02.pdf