靖国通りの「曙橋駅」より少し新宿寄りの富久町の交差点辺りからガクンと下り坂になりますが、そこには旧紅葉川が流れており、いくつもの支流を合わせて、靖国通り沿いから外堀りに出て北東に向かい、神田川に合流していたようです。

 参考:『ぶ ら り 東 京、 江 戸 散 歩  149新宿区 四谷・若葉 』
http://www42.tok2.com/home/najimakai/itoburaritokyo/149.pdf
「九段の「田安門」で有名であるが、田安家の上屋敷はこの門の内側にあり、下屋敷は現在の四谷四丁目にあった。この下屋敷付近を水源とする紅葉川が、東へ流れた後JR市谷駅付近から東北へ向かい、JR飯田橋駅付近で神田川に合流していた。市谷駅から飯田橋駅にかけて残っている現在の外濠跡は、この紅葉川の流路を深く掘り下げたものといわれている。
 紅葉川は、牛込台地に谷を作り、支流をあわせて窪地を流れていた。田安家の下屋敷(四谷四丁目)辺りの湧水や富久町の満頭谷の湧水を合わせて東に向かい、現在の靖国通りの南側に沿って流れ、曙橋付近でジク谷(河田町、住吉町)の流れを合わせた。その後、市谷八幡町で四谷見附方面からの流れと長延寺谷の小流をあわせて、市谷から飯田橋へ外堀通りに沿って流れて、船河原橋際で神田川に合流した。上流では「桜川」、尾張徳川家上屋敷(現在の防衛省)正門から下流は「大下水」「柳川」「長延寺川」とも呼ばれた。
現在の防衛省のある市谷本村町は、尾張徳川家上屋敷のあった場所。明治八年(1875)から陸軍士官学校となった。戦争中は陸軍省、参謀本部、大本営陸軍部が置かれていた。戦後は国際軍事裁判所となり、その後、アメリカ極東軍司令部、そして米将校宿舎、アメリカンスクールなどになり、昭和三十三年に返還された。翌三十四年に陸上自衛隊市谷駐屯部隊地となり、現在は防衛省となっている。防衛省の前を通る靖国通りは、昭和三十六年に拡張され、さらに四十年に再拡張され、通り沿いの街区は一変した。
  通りの南側に沿って流れていた紅葉川は、現在は埋め立てられて道路になっている。曙橋が架かる辺りのくぼ地や、船河原橋際の排水口が紅葉川の名残と言えるであろう。ジク谷の谷筋はあけぼの橋通りに、饅頭谷の谷筋は禿坂(かむろざか)になっている。(引用終わり)」

 
 紅葉川の水源としては以下のものが考えられるようです。

(1)四谷四丁目の旧田安家辺りからの流れ。
 この場所も含め、新宿御苑(公園)の辺りは、どうも地下水脈が湧き出るところのようです。なお新宿御苑の中の池は渋谷川の水源地になっています。

参考:『坂部さんに四谷の歴史を聞く 四谷四丁目』
http://www.yotsuya4.com/tokusyu/tokusyu2.html
 上記の記事の中に「明治17年作成地図」がありますが、四谷四丁目辺りに大きな池があります(湧水跡?)。また後述します荒木町にも大きな池があります。
 
参考:『田安鎮護稲荷神社と徳川将軍家 四谷四丁目』
http://yotsuya4.com/tokusyu/bunka4.html

 新宿御苑辺り、新宿通りから靖国通りにかけては物凄い急坂になっています。昔は湧水が急流となり下っていたのかもしれません。

(2)富久町の五色弁財天(http://ameblo.jp/dsc-s600/entry-10903764861.html)辺りからの流れ
 参考:紅葉川(もみじがわ) 現・新宿区四谷四丁目、同富久町、同市谷本村
 http://collegio.jp/?p=100
「…石川悌二さんの『江戸東京坂道事典』には「禿坂などはその坂下に池沼や川などがあって、かっぱが出没すると信じられたものだ。かむろは河童の異名である」とあります。「禿」とは、「頭に髪のないさま」もしくは「髪を切りそろえて垂らした子ども」(『広辞苑』)で、どちらも河童のイメージに合致します。」
「…実はこの富久町の交差点付近は「饅頭谷」という別名をもっていて、明治のはじめまでは二つの谷が合流し、現防衛省前を下って外堀に注ぐ「紅葉川」の一部でした。(引用終わり)」

 禿坂と(1)の流れが合流し、「饅頭谷」という谷地を形成したようです。その辺りは恐らく「池」のようになっていたのではないでしょうか。
 
 参考:『坂部さんに四谷の歴史を聞く 四谷四丁目』
http://www.yotsuya4.com/tokusyu/tokusyu2.html
「…新宿通りは、海抜62メートルで、新宿で一番標高が高いんです。靖国通り沿いに川(紅葉川)が流れていて、他にも(田安家屋敷から茗荷谷、饅頭谷、市谷本村町にかけて、上流は桜川、下流は柳川)川が流れていて、川(皮)に囲まれた庵((餡)が素性庵と呼ばれていた)があった為、饅頭谷と呼ばれていました。(引用終わり)」


(3)川田窪(河田町)辺りなどから「あけぼの橋商店街」を抜ける流れ
「あけぼの橋商店街」の通りの両側は段差が見られます。ここを抜けて東京女子医大の裏手(南西側)には巨大な窪地があります。いくつかの湧水箇所があったようです。
 参考:新宿区の地盤とその問題点
 http://www.tokyo-geo.com/mondai/siryou1.pdf 
 この中で、3の�の被害例に上記の場所が載っています。

 参考:スリバチ俯瞰 新宿区河田町
 http://10plus1.jp/photo-archives/89/album.php?c=16&i=0

 参考:念仏坂 (ねんぶつざか)
 http://www.sakagakkai.org/profile/shinjuku/nenbutuzaka.html
 谷底から上がる坂は急傾斜です。

 なお「曙橋」とは、今では都営新宿線の駅名として有名になりましたが、市ヶ谷と牛込の境界(旧紅葉川の谷)を結ぶ橋の名前です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%99%E6%A9%8B
「曙橋(あけぼのばし)は東京都新宿区片町と荒木町との境界に位置する陸橋である。外苑東通りの経路上に設置されており、靖国通りと立体交差を為している。」
「曙橋は、旧四谷区と旧牛込区(いずれも新宿区の前身、東京市の行政区)の境界(靖国通り)にある。この境界部分は谷状の地形をしており、四谷と牛込とを隔てている。また付近には士官学校と東京陸軍幼年学校の広大な敷地(そのまま現在の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地となる)があり、四谷・牛込間の往来は谷底まで一度降りるか士官学校の敷地を大きく迂回する必要があった。
 1920年代になり、陸橋建設が具体化した。関東大震災後の復興事業のひとつとして、四谷・牛込間を陸橋で結ぶ道路建設が計画された。しかし今日の外苑東通りの原型となる道路は建設されるものの陸橋部分は戦争による資金不足で、そのまま長らく放置されることとなった。
 1954年になり新宿区総合発展計画推進会(新宿区の任意団体)が陸橋建設を提言し、ようやく建設着工の運びとなった。名称は一般から募り、復興と成長を願う意味を込めた「曙橋」が採用された。1957年の開通時には、盛大な開通パレードが催された。(引用終わり)」

(4)荒木町の弁財天辺りからの流れ
 四谷荒木町には、昔大きな池がありました。
 『策の池界隈(四谷荒木町) 東京の水 2009 fragments』
 http://tokyoriver.exblog.jp/12391351/
「かつての花街としての雰囲気を色濃く残す四谷荒木町界隈。町の中心に南北に伸びる大きく深いスリバチ状の窪地があり、その谷底の一角にひっそりと「策(むち)の池」と呼ばれる小さな池が佇んでいる。現在は長さ10m弱、幅5m弱の小さな池だが、かつては長さ130m、幅も20~40mある大きな池だった。」
「江戸時代、荒木町は街全体が松平摂津守の屋敷の敷地だった。その中にあった庭園の中心にあったのが、策の池だ。池の名前の由来には諸説あるが、いずれも「乗馬用の策(ムチ)」を池もしくは池の水源で洗ったことが由来とされている。
 明治時代に入ると庭園は払い下げられた。池の一角に天然の滝があったことから明治初期には茶屋が出来、観光名所となった。滝は落差4mほどあったというが、周囲の急速な都市化で明治後期には既にほとんど枯れていたという。一方で町自体は歓楽街として発展し、数百人の芸者を擁する花街となった。
 明治16年に測量された地形図を見ると、池は南側に丸い池が一つ、そして北側に大きく細長い池が伸びている。そして、池の北側にある等高線を見れば明らかなように、本来このスリバチ地形は南側を谷頭とする谷戸地形で、北側に高い土手を築いて谷戸を遮り水流を堰止め、池が造られていたことがわかる。この谷戸は「紅葉川」の枝谷である。紅葉川は富久町に発して曙橋付近から市ヶ谷に伸びる谷筋を流れていた川で、市ヶ谷より下流部は江戸時代以降は外堀として利用されている。
明治後期の地形図では既に池は姿を消しており、現在残っている部分だけとなっていたものと思われる。(引用終わり)」

 今でも荒木町界隈には居酒屋などの飲食店がひしめき合っています。往時は花街として賑わっていたようです。現在も弁財天があり、小さな池が残されています。そこから周りを眺めると、みごとなスリバチ形状になっています。

(5)防衛庁の中の湧水池からの流れ
 市ヶ谷の防衛庁内にも池(湧水箇所)があったのではないかと指摘しているブログ等もあります。

(6)外堀通りから上がる台地からの流れ「長延寺川など」
 紅葉川は市ヶ谷方面に東に流れますが、市ヶ谷で外堀通り方向(北東向きに)曲がり、神田川に合流します。この流路変更には下記の断層が関係しているのではないでしょうか?
『最悪の場所で発見された!田端→飯田橋→四ツ谷 「首都縦断」』
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/33416
この2ページの図を見ますと、外堀通りに並行に断層が走っています。現地でも、市ヶ谷亀岡八幡宮に至る急傾斜の階段があり、そこに外堀通りに平行して段差が続いています。神楽坂の少し先で分からなくなりますが、神田川が削りとってしまったのかもしれません?

 外堀通りに平行した高台からもいくつか支流があったようです。
 『新宿区散歩その弐;市ヶ谷台地を辿り、大久保から北新宿へ』
 http://yoyochichi.sakura.ne.jp/yochiyochi/2011/05/post-160.html
「左内坂の隣に長延寺坂。左内坂と比べては、穏やかな坂。である。往昔、長延寺(明治末に杉並区和田に移転)が台地上にあったのが坂の名の由来。現在このあたりの地名は長延寺町と呼ばれるが、明治13年の陸地測量部の地図を見ると、長延寺谷町とあった。実際、慶長の頃までは長延寺坂の谷筋には大きな沼があったようである。
 長延寺坂を上り、現在では大日本印刷の工場のある、往昔の長延寺谷町あたりを通ることも多いのだが、台地の中程に窪地があり、如何にも大沼の面影を残す。大沼と言われただけあって、谷幅は100mほどあるかと思う。この長延寺谷を堀った土は九段、麹町、番町の土手の土塁とした、とのことである。(引用終わり)」

(7)その他の湧水箇所からの流れ(多数?)
 その他にも湧水箇所が多数あるようです?


参考:『紅葉川をねちねちと歩く その1 四谷と富久町の水源』
http://kaeru.moe-nifty.com/ankyo/2010/10/post-7197.html
『紅葉川をねちねちと歩く その2 弁天支流(仮)』
http://kaeru.moe-nifty.com/ankyo/2010/12/post-3f71.html
『紅葉川をねちねちと歩く その3 川田窪支流(仮)』
http://kaeru.moe-nifty.com/ankyo/2010/12/post-c4fe.html
『富久町のその後』
http://kaeru.moe-nifty.com/ankyo/2012/05/post-f9ed.html
『紅葉川をねちねちと歩く その9 長延寺谷支流(仮)と大日本印刷谷と未来の大径マンホール』
http://kaeru.moe-nifty.com/ankyo/2011/08/post-6b61.html
『紅葉川をねちねちと歩く その10 外濠との関係』
http://kaeru.moe-nifty.com/ankyo/2012/01/post-7bfa.html
『紅葉川をねちねちと歩く その11 嗚呼感動の砂土原町支流(仮)』
http://kaeru.moe-nifty.com/ankyo/2012/01/post-9164.html


さて、新宿区の洪水ハザードマップを見てみますと、禿坂辺り、河田町辺り、荒木町、長延寺坂辺りが水色になっています。。
http://www.city.shinjuku.lg.jp/content/000177892.pdf

新宿区ハザードマップ、がけ・擁壁、急傾斜地等の分布状況図を見てみますと、禿坂辺り、河田町辺り、流路が北東に変わる辺り(市ヶ谷駅前)、神田川と合流する辺りが、液状化の可能性がある地域のようです。
 また台地から旧紅葉川の谷地に向けて、いくつか急傾斜地崩壊危険箇所があります。
http://www.city.shinjuku.lg.jp/content/000158966.pdf

東京都 建物おける液状化対策ポータルサイト
 http://tokyo-toshiseibi-ekijoka.jp/chireki/chireki_search.html
 土地条件図にチェックしてみますと、旧紅葉川沿いは、ピンク色(盛土地・埋立地)になっており、その一部の外側には、ねずみ色(切土)となっているところもあります。ピンク色の場所は一般的に液状化の可能性が大きいようです。

参考:新宿区地盤情報閲覧システム
 http://www.city.shinjuku.lg.jp/seikatsu/ShinjukuBoring/Default.html
 こちらのボーリングデータを見て、土質・N値など確認しましょう。

 参考:換算N値と地盤 スウェーデン式サウンディング試験換算N値と地盤(ジオテック�様)
https://www.jiban.co.jp/service/kouji/kouji02.htm
砂質土の場合はN値5以下が軟弱、粘土質の場合N値3以下が軟弱とのことです。

 参考:ボーリング柱状図とは?
 http://www.shimane.geonavi.net/shimane/boring.htm

 参考:9. 地盤液状化 液状化危険度 
 http://dil.bosai.go.jp/workshop/03kouza_yosoku/s09ekijyoka/liquefaction.htm
「液状化は,締まりの緩い砂質層の存在と地下水による飽和,という2つの条件の組み合わせがある場所で生じます.砂丘以外のところでは,地層はごく表層を除き地下水で飽和しているとしてよいので,結局,砂質層が分布するか否かの把握が危険度判定の基礎になります.ボーリングデータにおける地質の記載では,シルト質砂・礫まじり砂・貝がらまじり砂などいろいろな表現がなされていますが,砂の文字が入っていれば液状化の可能性があると判断してよいでしょう.液状化が最も起こりやすいのは細粒・中粒の砂で,その粒径が揃っているほど液状化の可能性が大です.締まりの程度はN値によって判定します.砂層の深さにも関係しますが,N値がおよそ20以下であると液状化発生の可能性があり,N値が10以下であると液状化の危険性は大きくなります.深くなると液状化の影響は地表にまで達しなくなるので,問題になるのは深さ15~20m以内の砂層です(図9.2 液状化発生条件).液状化しない地層(泥層など)が上に載っていると(厚さおよそ3m以上),噴水・噴砂が抑えられるので,地表面の変形は生じません.(引用終わり)」
 液状化を考慮すると、土質が砂交じりである場合、N値が20以下ですと可能性があり、N値が10以下ですと危険性が大きくなるようです。

お願い
http://www4.hp-ez.com/hp/pitagorasu/page43