『都市計画の世界史』日端康雄著 講談社現代新書から引用します。

「19世紀後半、ドイツの多くの都市では、人口集中による都市問題として、賃貸兵舎と呼ばれた過密で公衆衛生上、問題の多い民営賃貸住宅の建設が大きな社会問題となった。また市街地の急拡大と、土地投機や地価の高騰が問題となった。そのため市街地拡張に対しては、市街地周辺の空地を先行的に取得する政策が取られた。これがドイツの土地公有化政策の始まりである。1900年当時、フランクフルトでは全市域の52.7%、ハノーバーでは37.3%、ライプチッヒでは33.2%の土地を市が保有していたといわれる。これらの都市では不動産局や土地測量局も設置され、積極的な土地政策が展開された。

 当時、有力な都市計画学者バウマイスターは、1976年公刊の『都市拡張』という自著の中で、市街地拡張を自由放任にするのではなく、公的介入をして、単に道路、敷地の整備としてではなく、社会的、経済的政策と関連をとりながら計画的に整備すべきことを主張した。

 フランクフルト市長を22年間務め、都市拡張の著しい同市の総合的な都市政策を実施したフランツ・アディケスは、1902年、「土地区画整理法」をプロシア議会に2回提出し、2度目にフランクフルトに限定した制度として制定が認められた。これは「アディケス法」と呼ばれた最初の土地区画整理法である。この制度はその後、18年のプロシア住居法に統語され、プロシア全土で適用になった。

 土地区画整理事業は、市当局が民間所有の土地を市の計画に適合させて土地の区画形質を整理して再配置し、併せて道路、公園その他の公共施設を整備する。この開発によって地価が上昇するので、公共施設用地費や事業費を民間所有土地の減歩(土地区画整理の際に公共用地などに土地をとられること)によって賄うというものである。…この制度は耕地整理の考え方を都市計画に導入したもので、わが国でもこれを学んで1919年の「都市計画法」に土地区画整理が取り入れられた。

 しかしドイツと日本の土地区画整理には大きな違いがある。建築線を伝統的に建築規制の手段として持つドイツでは、土地区画整理も建物などの上物も含めた事業として実施される。そのため町の完成度が高い。ドイツと比べると、日本の土地区画整理は土地と上物を分離した土地だけの事業であり、都市づくりとしては簡便であるが、建築が無秩序に建つ場合が多く、また地主の意向で建物が長期間建たない場合もある。さらに日本は、国の方針で区画整理標準を定めて、格子割街区になるのが通例であるが、ドイツの区画整理は、建築線が用いられていたので、格子状街割になるわけではない。(引用終わり)」


<ドイツでは19世紀後半の産業革命による都市化に対応して、市街地周辺を公有地にするこにより無秩序な市街化を阻止したようです。さらに土地区画整理法や詳細な建築規制を利用して、計画的な合理的な都市づくりを行ったようです。

 一方日本の高度経済成長時代の都市政策を顧みますと、無秩序な市街地化を抑制できなかったと思います、計画的で合理的な都市計画などはなく、民間事業者による虫食いのような乱開発を放置していたように思います。まあ当時はとにかく産業政策が最重要課題であり、居住空間・環境などに資源を振り向ける余裕がなかったということでしょうか?。
 どうも哲学的な考え方が欧米とは異なっていたのではないでしょうか。あまりにも即物的なモノの生産に片寄り、住環境という「人権」などまったく考慮することができなかったようにも思えます。>