この頃「都市計画」と「環境」の分野に興味があり、いろいろと本を読んでおります。つくづく知識が足りないと実感しています。

 さて『環境アセスメントと何か』原科幸彦著 岩波新書を読んでハッとしました。環境政策の基本は土地の適正利用にあると書かれてありました。人間活動も「生態系の一部」と捉えると、まさに適正な土地利用はその根幹的課題ということでしょう。

 欧米の都市計画では、事前の綿密な環境予測により、適正な床面積=「全体の容積率」を決め、それを各ゾーニング地域に割り当てるようです。ニューヨークに比べ、東京の床面積(容積率)は約2倍ほどあり、世界に例を見ない過密都市とのことです。

 アセスメントとは事業計画がほぼ決まった段階で行うアワセメントでは意味がなく、立案段階から簡易アセスメントを行い様々な検討・対話を行うべきとのことです。戦略的アセスメントと言われる手法だそうです。それは都市計画にも適用されるべきものだとのことです。

 マンション管理・建替えも、都市計画・環境問題の最もダウンサイジングしたものではないかと思えてきました。

 「都市計画」について基本的な知識を高めるために『都市計画の世界史』日端康雄著 講談社新書から引用してみたいと思います。

「建築のバロック芸術の時代は主に16~18世紀であるが、バロックの都市計画はそれと関連しながら、17世紀頃から20世紀前半に広がっている独特の都市計画スタイルである。前近代から近代に移行する文明転換の時代に実現されたこれらのバロックの都市は、21世紀の世界大交流の時代に魅力ある観光都市して評価されている。その代表がパリやウィーンである。

 後期バロックの時代になるとこの芸術スタイルは専制王政と密接に関連し、そこでは建築と彫刻、絵画などが一体となって装飾的で絵画的な都市空間を形成した。フランスでは、ルイ14世(1638~1715)、ナポレオン1世(1769~1821)、ナポレオン3世(1808~1873)らの”専制君主”が輩出し、それを先導した。彼らは、バロックの芸術的特徴が都市設計様式として組み込まれた都市改造手法を、自らの権力を鼓舞するものとして政治的手段に応用したのである。

 …バロックの都市計画の社会性には問題があるとしても、ヨーロッパではバロック都市において、はじめて意識的な都市計画が行われ、バロック都市の様式は、近代都市計画のプロトタイプの1つともみなされている。

 ヴェルサイユとカールスルーエは、バロックの都市の最初の代表例である。
 …ルイ14世は、…ル・ノートルに命じて壮大な庭園を設計させた。宮殿の背後のヴェルサイユの町は、宮殿を中心とした放射状道路が格子状街割に重ねられる形でつくられた。大通りには三列の並木が植えられ、遠近法的な眺望が得られるよう設計されている。
 …都市軸や焦点が君主政治の巨大な権力を象徴する都市デザイン手法であった。

 1790年、ジョージ・ワシントンは大統領官邸法に基づきポトマック湖畔に新首都の建設を決定し、フランス人ピエール・シャルル・ランファンに計画をまとめさせた。
 ランファン・プランの特徴は、(1)格子状街路と放射状街路を重ね合わせ、放射状街路軸線を強調し、その交点に広場を配置、(2)国会議事堂と大統領官邸を核とする東西・南北軸を設定し、その交点に記念碑を設置。東西の軸線は幅員120メートルのグランド・アベニューとした。街路は幅員48メートルの広幅員街路、40メートルの幹線街路、30メートルの街路の三種類とされた。(3)ポトマック河から東のアナコスティア河に至る運河を開削した。

 第二帝政期(1852~70年)において、ナポレオン三世からセーヌ県知事に任命され、パリ改造を委ねられたオースマンは、街路、建物、公園、公共建築の四つを相互に関係させて実施した。特に、公園はアルファンによって、ブローニュの森(847ヘクタール)、ヴィンセンヌの森(901ヘクタール)、ビュット・ショーモン公園、モンスル公園などがつくられ、さらにシャンゼリゼ通りになどの交差点に24の広場が実現した。

 オースマンは市議会で新しく提案する街路建設がスラムの撤去、交通体系の整備、治安の維持、暴動の統制になること、とくに新たに建設された鉄道駅を互いに結ぶことで、交通が抜本的に改善されることを主張した。新しい街路や建物のみならず、上水道供給の総合的な再建、新しい下水道体系、大規模な公園改良を含む再開発にオースマンは土地収用法や「超過収用」(1852年)という新設された近代的手法を用いた。
 これは新街路の用地だけでなく、両側の開発用地も強制的に取得するものである。収用(強制買収)した土地は、連続したファザードの統一性を保証するための規制をかけたのち、開発業者に売却された。

 パリ改造と同時代に、ウィーンの環濠が埋められて環状道路と公共建造物などがオッオー・ワーグナー
などの建築家を動員して、1858~88年に建設された。」(引用終わり)

『バロック期の都市風景を読む』荻島哲著

 <近代に入り、初めて「現代に通じる都市計画理論」として、「バロック的都市計画」が行われたようです。
 私は学生時代にミルチェ・エリアーデの神的記号に関する本を読んで、人間の神聖を感じ取る感性について興味をもちました。例えば「垂直に延びる線形」や「重厚で大きな岩石」などの抽象的な「形・色彩など」そのもに神性を感じ取ってしまうことがあります。
 当時、絶対君主たちはその威光(神性)をバロック的都市計画の中で創出しようと思ったのでしょうか?
 また市民革命や科学技術の進歩により、先進的で合理的な建築設計・手法や行政政策ができるようになったことも要因として挙げられるかもしれません。
 バロック的都市計画によって、「近代」の「神聖な場」が創造・構築されたということでしょうか?
 そして近代市民もその「場」で憩いを感じるようになったのでしょうか?
 後藤新平も台湾・満州で行った壮大な都市計画の目的として、植民地政策の慰撫と権威の創出とのことを語っていたようです。>