『復興計画』越澤明著 中公新書より引用「」、私もコメントします< >

「1919(大正8)年4月5日、都市計画法と市街地建築物法が公布された。都市計画法は財源の点では不十分なものとなったが、都市計画の計画立案(プランニング)、行政機構、規制誘導(コントロール)という点ではそれまでの東京市区改正条例と比べて大きく進歩しており、都市計画の法制・システムという点では欧米諸国と比べて遜色のないものができあがった。

 東京市区改正条例と比較して都市計画法は次のような点で進歩し、改善されている。

(1)市区改正(既成市街地の改良)の観念から脱却した。都市をひとつの有機体とみなし、その総合的な整備を図ることが都市計画である、という考え方に立つようになった。

(2)都市計画制限の制限が創設された。都市計画事業として決定された都市施設(道路、広場、河川、港湾、公園など)の区域内で私権を制限できるようになった(建築活動、樹木伐採など)。

(3)地域制(ゾーニング)の制度が創設された。住居地域、商業地域、工業地域を指定し、市街地建築物法と連動して、建築物の用途、構造、高さ、建ぺい率などを規制した。また高度地区、風致地区、風紀地区を指定することができるようにした。これによって土地利用を緩やかであるが、コントロールできることが可能になった(1919年以前は建築活動は自由放任に近い状態であった)。

(4)区画整理の制度を創設したこと。これは農地の改良のための耕地整理法を準用して区画整理を実施するという不備な点もあったが、関東大震災後の帝都復興事業、郊外地の宅地開発に、大いに活用されることになる。

(5)超過収用の制度を認めたこと。超過収用とは近代都市計画のルーツである19世紀のパリ都市改造で採用された事業手法である。これは道路、公園など公共施設予定地の周囲まで土地収用し、区画(建築敷地)を整理して売却し、都市改造の財源に充当するもの。この結果、沿線の街並みは整備され、開発利益が公共還元されるという方法である。
 …戦前の国内実施例は三例のみ。このうち二例は河川運河がらみであり、本来の都市改造として実施されたのは新宿西口の一例のみである。

 略 (引用終わり」

<大正時代には欧米諸国と比べて遜色のない都市計画法制が実施されていたようです。
 都市の総合的な立案機能、ゾーニング制による乱開発抑制、私権の制限・公共性の重要性、区画整理手法の整備など現在からみても立派な政策手法であったように思われます。もしかすると現代の方が都市計画の政策面で後退しているのではないでしょうか。>