『復興計画』越澤明著 中公新書より引用「」、私もコメントします< >

「1919(大正8)年、都市計画法が公布され、近代都市計画の法制度が導入された。1923年の関東大震災の復興事業(1924~30年)は日本国内における初の大々的な都市計画事業であった。この二つの事柄は、いずれも後藤新平(1857~1929)の卓越したリーダーシップによって実現している。

 大正・昭和を通じて後藤新平のように都市計画に情熱を注いだ有力政治家は他にいない。しかも、彼の周囲には当時のトップクラスの専門家(学者、官僚、技術者)がブレーンとして集まっていた。大正期、日本で近代都市計画が制度化され、帝都復興事業を通して確立されていく過程は、すべて後藤新平と彼の周囲の専門家を中心に展開した。」

「後藤新平の決断とリーダーシップにより都市計画の法制化のレールが敷かれたものの、都市計画調査会における法案審議は、大蔵省の頑迷で執拗な反対にあい、草案にあった都市計画の財源、都市計画の実現化のための重要な条項(国庫補助、土地増価税、超過収用など)はことごとく削除されるか、骨抜きにされた。」

「結局のところ、都市計画法から国庫補助の規定は全面削除された。この結果、道路は道路法、河川は河川法と個々の土木事業として国庫補助をするしか方法がなくなった。したがって、都市計画、都市改造という都市のインフラ整備を総合的に推進し、それを補助する途がふさがれたのである。

 のちに関東大震災、戦災の際に、復興事業そのものを国庫補助するために特別立法=特別都市計画法を制定したのはこのためである。ましてや、平時の都市計画、つまり郊外地の計画的な宅地開発、良好な分譲造成を助成・誘導するために国庫補助をすることはありえなかった。

 また、道路、河川、下水道という個々の土木施設しか考えないという傾向を国の社会資本整備・公共事業につくることになり、都市の土木施設をトータルに計画し、事業を推進することが困難になった。(引用終わり)」


 <後藤新平さんという類稀な政治家及びその支持者たちにより、「近代日本の都市計画」は構築されたようです。後藤さんは元々医師としの衛生学的見地から都市改造の必要性を見出し、その後に防災や都市機能なども考慮した総合的な都市計画の重要性を感じたのではないかと思います。
 後藤さんの大胆(総合的で積極的な)な帝都復興計画は、大蔵省により財源の法制化をほとんど阻まれ、潰されてしまいました。そのため個々の道路や河川などに財源が付くことになり、個々の土木工事だけに集中して、総合的で根本的な都市改造・計画事業は行われず、衛生・防災上危険な地帯が残存することになってしまったようです。
 太平洋戦争後の都市計画は、物資の不足等もあり、大正・昭和初期よりも都市計画的な思考は後退してしまったようです。後藤新平さんのような革新的な政治家も出ず、田中角栄さんが住宅公団、建築基準法などを整備しましたが、如何せん土木・建築のみに傾き、総合的な都市計画という認識はやはり欠けていたのではないかと思います。              

 都市計画というのは、「強力な政治的意志」が必要であり、その前提には哲学的(論理的)に考え抜かれた計画構想が必要なのだと思います。選挙の争点として「都市計画」をどのように進めるかという提案がもっと出されるべきかと思われます。
 福島原発事故後、世界では新エネルギーと機能的な都市計画を組み合わせた「スマートコミュニティ・スマートシティ」が注目を集めているようです。土木・建築などの他に様々な電気・情報産業なども含めた総合的な都市計画が必要になってきているようです。>