「ブッダのことば スッタニパータ」中村元訳
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数多い仏教書おうちで最も古い聖典といわれているのがこの「スッタニパータ」であります。
現在の仏教とは少し違う原始仏教のことを知りたくて、もっともブッダの発言に近いといわれているこの本が前々から読みたいなぁ~って思ってたんだけど、難しそうだなぁ~って思ってなかなか手をつけれないでいた。
きっと難しいんだろうと思い、気合を入れてエイヤーっ!っと読み始めたら、これがなかなか読みやすい。わかりやすい訳のおかげなんだけど、読みやすいし、これがおもしろい。
この本ではブッダの言葉を弟子たちが書き残したもので、ブッダ自身は自分の教えを書き残さなかったから、後の弟子たちが様々な書物として書き残している中の1冊。
様々な弟子が、様々な解釈でブッダの言葉を残したから、書いた弟子によってかなり幅のある内容になっているようです。
そんな中でもこの「スッタニパータ」は特にブッダが残した発言に比較的近い状態のものが記載されているといわれています。
まず、前提として仏教の目的というのが、今の仏教と当時と少し目的が違うかったようです。
凄く大雑把に言うと現在日本で多く知られている大乗仏教では往生すること、つまり浄土に行くことが目的。凄く大雑把に言うとですよ。
それに対して元々の仏教の目的はブッダになること。全ての人間がブッダになることが目的なんです。ブッダになると輪廻の輪から開放されます。つまり、次になにかに生まれ変わることはない。生まれ変わるとまたこの世で苦しまなくてはならない。だから、仏教の目的はもう生まれ変わりたくないから、ブッダになろう!ってことなんです。
この基本的な目的を頭に入れた状態で読むとまだ理解しやすいかと思いますので、読もうと思ってる方はぜひ覚えといてください。
さて、本の内容に移りましょう。
この本は仏教の最終目的であるブッダになるためにはどうすればいいか?
どんな行動を取ればいいか?
どんな考えをすればいいか?
そんなことが記されている本です。
例えば、「小なる章 十、精励」には執着にとらわれてはならない。というようなことがかいてある文があります。
神々も人間も、ものを欲しがり、執着にとらわれている。この執着を超えよ。わずかの時を空しく過ごすことなかれ。
仏教では全ての煩悩を捨てることが最も大切なので、ものに執着するというのは一番基本的な駄目なことなんではないかと思います。
自分も物に執着してる傾向があるので、ちょっと戒めないとなぁ。
完全に執着を捨てるのは私のような人間には難しいかと思いますが、少しでも執着を減らして生きていきたいとは考えます。
そして、ブッダ(目覚めた人)とは一体どんな人なのか?という言葉も様々な言葉があるのですが、割と完結でわかりやすかったのが「大いなる章 六、サビア」にこんな言葉がありました。
あらゆる宇宙時期と輪廻と(生ある者の)生と死とを二つながら思惟弁別して、塵を離れ、汚れなく、清らかで、生を滅ぼしつくすに至った人、かれを<目ざめた人>(ブッダ)という。
ブッダは壮大な視点をもってものごとが見れる人だったんでしょうね。ハッキリとした意味はよくわかりませんが、なんか凄い感じはします。
個人的に最も感銘を受けたのが「蛇の章 八、慈しみ」の中にあるこんな言葉です。
いかなる生物生類であっても、怯えているものでも、強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生きるものは、幸せであれ。
この万物に向けられたた慈しみの目。いやー、すばらしい。この心は大切にしなければなりません。
あと、この本読んでビックリしたのが蛇の章の三に「犀の角」というチャプターがあるんですが、このチャプターの文は全て
犀の角のようにただ独り歩め。
という言葉でくくられています。
この言葉、THA BLUE HERBの曲でその名も「サイの角のようにただ独り歩め」という曲があるんです。あー、これが元ネタだったんだぁーって思いました。
とりあえず、とても良い本だったのでオススメです。
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