観音さまの「観音」という漢字を見ると
音を観る
と書きます。
見えないはずのものが見える特別な存在である。
という意味もあるらしいですね。
この「音を観る」という行為というか現象って本当にそんなことがあるのでしょうか?
ここにこういうお話があります。
茶人である千利休の孫で千宗旦という人がいました。
宗旦と仲良くしていたのが京都にある安居院というお寺の住職。そして、このお寺には滅多に花を咲かせないことで有名な椿の木がありました。
ある時、この椿が珍しく花を咲かせています。住職はそのうち一枝をポキンと折って小僧を呼んで言いました。
「御苦労だが、咲かないといわれている椿が珍しく花をつけたから、これを宗旦さんのところへ持って行って茶花にしてもらいなさい」
小僧さんは両手で大切に持って出かけたが、運悪く石にけつまづいて転んだ拍子に花が取れてしまいました。あわてて花を拾っても、もう元にはもどりません。小僧さんはトボトボと宗旦さんの家に行き、ことの次第を正直に話しました。
宗旦さんは椿の枝を受け取るとやさしく言いました。
「小僧さん、あなたに怪我がなくて何よりでした。まぁ椿を残念ですが、御苦労さまでした・・・・・小僧さんお寺へ帰ったら、今日は日がいいから御前さまにお茶を一服差し上げたいのでお越しいただくようお伝えください」
小僧さんはせっかっく正直に話したのにお師匠さんに事の次第をバラされてしまうなぁ、とガッカリしお寺へ戻ります。
「宗旦さんが、お茶をいかがでしょうとおっしゃっておいででした」
「おぉ、そうか。せっかくのお誘いだからよばれることにしよう」
宗旦宅へ到着した住職を笑顔で迎える宗旦さん。茶室に入った住職が目にしたのは、先ほど小僧に持たせた椿。
椿の枝は見事に生けてありますが、肝心の花が床に落ちている。
黙念することしばし。やがて目を開いて一言。
「実に見事ですな」
それを聞いて宗旦さん、目を細めていわく
「そうですか。ありがとうございます」
これで、このお話は終わりです。
宗旦さんは茶室に見事にポトリという音を生けてあった。というお話。
つまり、音を観える形で展示したわけです。
僕はこのお話を聞いて思い出したのがサン=テグジュペリの「星の王子さま」でした。
主人公の飛行士と王子さまが初めて出会うシーンです。
飛行機の故障で砂漠に不時着した飛行士が飛行機の修理をしていることろに突然
「ヒツジの絵を描いて」
と話しかけてきたのが王子さまでした。
飛行士は最初とまどいますが、王子さまがあまりにもせがんでくるのでヒツジの絵を描いてあげます。
しかし、王子さまは
「このヒツジは病気で弱ってる」
とか
「これは年をとりすぎてる」
とか言ってなかなかOKが出ません。
そこで、飛行士は箱の絵を描いて、その箱に窓のような丸を書いてあげ、こう言います。
「ほら木箱だ。きみがほしがってるヒツジはこの中にいるよ」
すると、王子さまの顔がぱっと明るくなって
「これだよ、ぼくがほしかったのは!」
と大喜びするのです。
王子さまには見えないはずのヒツジが観える。
これこそがアートの世界なのではないかと思いました。
宗教のお話から、芸術に思いを馳せる。さらには、物理学の不確定性原理のことも思い出したんですけど、話が長くなるのでこの辺で。

