こんにちは。
通りすがりのヒーラー光風(みつかぜ)です。
昨日の平岸霊園での天気の祈りの流れで、今日は平岸を開拓した人物につながっていきました。
その人物につながる前に、わたしが祈りの中で視たものは、クラーク博士の目覚めでした。
◆天気の祈りについては、こちらの記事をご覧ください。
天気の祈り2025.08.16
札幌農学校の教頭として、教え子に大きな影響を与えたクラーク博士。
彼が札幌を去った後の人生は、決して順風満帆ではなかったようです。
1877年に日本を離れて帰国したクラーク博士は、マサチューセッツ農科大学の学長を辞任。
その後、船の上で授業を行う「洋上大学」という壮大な計画を立てますが、資金が集まらず断念してしまいます。
生活に困るようになった彼は、知人と共に鉱山会社を設立し、一時は大きな利益を上げました。
しかし、その知人による横領と逃亡が原因で、会社はわずか1年半で破産。
莫大な借金を抱えてしまいます。
裁判で罪に問われることはありませんでしたが、心臓病を患い、病に伏せる日々が続きました。
そして、失意のまま、59歳の若さでこの世を去ったのです。
死の間際には
「札幌で過ごした9ヶ月間こそ、私の人生で最も輝かしいときだった」
と言い残したそうです。
わたしは、祈りの中で現れた女神のような存在の言葉によって、クラーク博士の魂が浄化されていく風景を見ていました。
女神はクラーク博士にこう伝えていました。
「立ち上がりなさい」
「あなたの使命は、今果たされるのです」
と。
クラーク博士の心願
ここからは、クラーク博士との対話の記録です。
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クラーク博士は目を閉じたまま、小金湯の上空に浮かぶ。
そして黄金の輝きを放ち、エネルギーを放射する。
(小金湯は、もとは「黄金湯」と記録されていたそうです。わたしが視た女神は、この土地の存在かもしれません)
博士は目を開いて
「わたしはこの地を守りたい。そしてこの土地の皆に恩返しがしたい」
と伝えてきた。
彼は地図上空のエリアで、あぐらをかき、両手を合わせる。
仏教の姿勢で念仏を唱え始めた。
キリスト教を広めた彼が、仏教様式の祈りをするのは、不思議な光景だった。
「自慢じゃないが、わたしは霊感が強いんだ。だから任せておくれ」
彼はわたしにウィンクをし、天気の祈りに協賛する旨の返事をくれた。
「(天気の祈りの)その答えは、いつも我が心の中にある。世界の終末もこの地を揺らがさぬよう、取り計らいたい」
その言葉は、この地への愛が深い事を伝える、彼の魂からの真実だと感じられた。
「教え子よ。私はもう開拓の父ではない。一介の法曹のように、無私の心で祈りに応えたいと思っている」
その言葉を聴いていたのは、わたしだけではなかった。
わたしの隣には、平岸を開拓したとされる人物が、敬意を表す姿勢でクラーク博士に礼をしていた。
(リーディングここまで)
平岸開拓の父、吉川鉄之助の物語
●長沼と奥州市を結んだ開拓者の足跡
明治4年(1871年)、わずか13歳で両親と共に平岸へと入植した少年、吉川太左ヱ門の一人息子、鉄之助。
彼は開拓使の農業修行人として、平岸の地に洋式農法を広めるため尽力しました。
札幌農学校の教頭だったクラーク博士からも教えを受けました。
●平岸から長沼へ、そして奥州との絆
明治20年(1887年)、鉄之助は平岸を離れ、長沼の最初の開拓者となります。
開拓初期にはバッタや霜の害に苦しみ、鹿肉などを売って飢えをしのいだといいます。
しかし彼の努力はすぐに実を結び、開拓は順調に進みました。
明治25年、村が開かれる際、住民たちは鉄之助の功績を称えて「吉川村」と名付けようとしました。
けれど、彼は固辞しました。
この縁がきっかけとなり、昭和48年、長沼町と鉄之助の故郷である岩手県水沢市(現在の奥州市水沢区)は姉妹都市となりました。
この絆は災害時にも大きな力となります。
昭和56年に、長沼町が水害に見舞われた際には、水沢市から多くの見舞金が寄せられました。
平成20年、岩手・宮城内陸地震が発生した際には「今度はこちらから」と、長沼町の板屋町長(当時)が、広報無線で全世帯に募金を呼びかけ、恩返しをしたのです。
●麻畑村からリンゴの里へ
開拓当初、平岸は「麻畑村」と呼ばれていました。
麻は網やロープの材料として、開拓初期の北海道の工業や漁業を支えていました。
しかし連作によって次第に地力が低下し、収穫量が減少していきました。
そこで、麻の代わりに植えられたのがリンゴです。
平岸の気候がリンゴ栽培に適していたため出来がよく、やがて「平岸リンゴ」は日本を代表する特産品へと成長していったのです。
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