深夜0時。時計の針が音を立てながら右へと移動していく。
チクタクチクタクという音が心臓の音と重なってくる。
いつのまにか暗くなった部屋の真ん中で、かなえはポツンと座っていた。
胃が動いていないかのように、かなえは朝から何も食べずに、そこに座ったままだった。
食事も喉が通らない。飲み物さえ受け入れない。いつまで、私はこの状態を続けるのだろう?

ふいに玄関に顔を向ける。今にもトビラが開いて、たかしの「ただいま」という声が聞こえてくるかもしれない。
そうかなえは思うと、いてもたってもいられなくなった。

バスルームに駆け込み、勢い良く蛇口をひねった。シャワーが音を立てながら床を叩く。
来ていた洋服を次々と洗濯かごに投げ入れ、一糸まとわぬ姿になったかなえは、
熱い湯気の中に身を投げた。
匂い立つ湯気に生気をもらうかのように、かなえは身体を洗い始めた。
ラベンダーの香りのする石けんを直に身体に滑らせていく。
泡立つ前に流されて行くことも気にせず、つま先からかかと、太もも、次々と洗っていく。

目をつぶると、たかしがラベンダーの香りのする石けんで、かなえの身体を洗う姿が見える。
使うのは特別な時だけだった。たかしがこの石けんでかなえの身体を洗うとき、それはsexをする合図だった。
かなえの秘部を知り尽くしていたたかしは、泡立たちの柔らかさまでこだわった。
どのくらいの柔らかさで、どうやって洗ったら、かなえが感じるか。
徐々にかなえを未知の世界へと導いてくれる、魔法の石けんのようにさえ思えていた。

いつも必ず、エクスタシーを感じさせてくれる魔法の石けん。
身も心もたかしと溶け合ってしまったかのような、官能の世界への扉。

夢中になって身体を滑らせていた石けんが、手から滑り落ち、大きな音を立てた。
現実的な鈍い音を出して落ちた石けんは、しばらくシャワーという名の雨に打たれながら、くるくると勢いよく回り、ゆっくりと回転するスピードを下げた。
徐々に長い間使わなかった形跡をかなえに見せつけるように、ひからびた石けんがはっきりと目に映った。
その瞬間、石けんを一人で使う空しさを、かなえは感じずにはいられなかった。

外は薄暗い。

嫉妬が身体の中をめぐる。どうしようもない嫉妬が、どんどん湧き出てくる。

どんな女と一緒にいたの?私より若い?それとも年上?


どんな風にその人を抱いたの?私と同じように?

私にしてくれたように、浮気相手の子にも同じようにしたの?


・・・。

キャバクラに行くとか、風俗に行くとか、そういったことには目をつぶってきた。

名刺入れから出てきた、それらしい店の子の名前がのったものを見つけても、溜息で処理してきた。


でも、今回は違う。女の感はあたる。


男というのは、一人の女に満足できないものみたいだ。

どうあっても、次の獲物をみつけたら、それを狩りたい衝動に駆られるらしい。

頭で理解してても、心がつぶれそうだ。どうしようもない。


SEXLESSが原因?彼が私の体に興味を失ってきたのは分る。

愛しい愛撫も、甘いキスも、ずっとずっとしてない。


涙がこぼれた。頬に伝う生ぬるい水は、私の首をつたって胸に流れた。

彼の感触が蘇る。と、同時に、彼への憎しみがこみ上げてきた。

ひどすぎる・・・。


「ただいま。小枝子?どうしたの?こんなに暗くして」


彼はそういうと電気のスイッチに手を伸ばし、明かりをつけた。

私はとっさに、涙をぬぐい、立ち上がって言った。


「おかえりなさい」


彼は、「ただいま」と言った・・・。

深夜。いつも横にいるはずの温もりが感じられずに目が覚めた。

実の姿がない。

時計は太陽が眠りから目覚める時刻を指している。


実・・・


声にならない声で呼ぶ恋人の名前。

もう何ヶ月も、恋人の名前を呼んでいない。

ベットの中で愛しい声を出していたあの時間は、いつか戻ってくるのだろうか。

また同じように愛し合う日々が戻ってくるのだろうか。


私たちは決して愛が覚めたわけではない。

実の時間がなさ過ぎるだけだ。

会社を恨むわけではない。彼が私より、仕事を選んでいる事が辛いのだ。

男というのは、仕事に生きるものだと、随分と昔に母親が話していた。

父親も仕事人間で、休日は接待だと言ってはゴルフに出かけ、

平日の帰宅は私が眠ってしまった夜の深い時間。


母親はそれでも、父親をかいがいしく世話していた。

多くの女性が、そうやって自分の心を押し殺して生きてきた。

だけど、子育てだけをしていればいいと、言われていた時代は終わったのだ。


分かっている。分かっているのに、私は、実るに言えないでいる。


早く帰ってきて。二人の時間を作って。私を愛して。


この言葉を何度も言おうとした。でも、頑張っている彼には言えないでいる。


もう何ヶ月も肌の温もりを感じあえずにいる。

たったそれだけの事なのに、それを切望している。

SEXしたいと思う事が、はしたないと思われても仕方ないけれど、

それが恋人の愛を感じるのに、とても重要な鍵を担っている。


私はこのどうしようもない気持ちをどこにぶつければいいのか、

分からなくなっている。


友達に相談してみようか・・・

今まで恥ずかしくて話せなかったこの悩みを、誰かに相談してみようか・・・






佐々木君に連絡したのは、夕方を少し過ぎた時間。
うっすらと淡いピンク色に染まった空を眺めながら、携帯を私
は握りしめていた。
馬鹿な事をしようとしているのはわかっている。
だけど、どうしても確認したくて連絡した。

駅の近くの喫茶店で、彼の同僚である佐々木君を待った。
約束の時間が近づくに連れて、帰ってしまおうかと何度も考え
たけれど、帰れなかった。
私が求めているのは、確かな言葉。
「本当に俺の家に泊まっていたよ」という言葉。

私は精神的におかしいのかしら?
多くの女性は、彼の浮気を確信したときに、どういった行動に
出るんだろう。
自分の身になってみないと分からないというのは本当だ。今ま
で馬鹿にしていたような事なのに、
それが知りたいと、切に思った。

女性というのは自分の世界を守りたくなるものだ。
今まで築いてきた世界を、そんなにスッパリと切る事はできな
い。
なんとしてでも、その状態を保ちたいと思うもの。

ドアが開いた。親しい友人にかける微笑みを持ったまま、佐々
木君が私に近づいてきた。
「どうしたの?いきなり呼び出すなんて。あいつの事?」
やっぱり察しはついていたのか。私はその通りだと伝えた。
注文を取りにきた店員に、珈琲を頼むと、タバコに火をつけて
彼は言った。
「それで、何かあったの?俺に相談しなければいけないような
ことが」
「いや、特にあったわけじゃないんだけど・・・」
彼が昨日佐々木君の家に泊まった事を話しださないということ
は、警戒しているのか、
それとも何も聞いていないのか・・・そのどちらかだ。
「昨日、何してたの?」
私は聞いた。
「昨日?昨日は彼女と過ごしてたよ。美味いホルモン屋みつけ
てさ~。今度みんなで行こうよ!」
かくも全てが崩れ去った瞬間。そして、女の感というのは当た
るものだと確信できた瞬間。
「そう。そうなんだ。そのホルモン屋ってどこにあるの?」
などと、話を濁して、食べ物の話題で時は過ぎた。
5本目のタバコを吸い終わる頃に、佐々木君が言った。「で、
話ってなんだったの?」
「ううん。もういいの。気にしないで。久々に近くに来たから
お茶したかっただけだし」
「そうなんだ」
私たちは1時間で別れた。
このまま家に帰れそうにない。このまま家に帰ったところで、
どうしたらいいの?
いつものように「お帰り」という言葉で彼を迎え入れる事がで
きるのだろうか?
私は彼の浮気を確信した時に、多くの女性が取る行動というも
のを、本当に知りたいと切に思った。

メールの着信音が聞こえたから、バックから携帯を取り出した。

送り主は同棲相手の実。

「ごめん、今日も帰りが深夜になりそうだ」

短いメールの文章に、仕事の忙しさが垣間みられる。

実の仕事はWEBデザイナー。

午前様まで仕事なんてしょっちゅうで、時には朝になることもある。

同棲当初、実はフリーのデザイナーだった。

だから家で仕事をすることが多くて、夜はいつも一緒に食事をしていた。

食事の後にお風呂に入って、一時の甘い時間をベットの中で過ごして、

私が寝付いた頃に実は一人起きだして、仕事を朝までしていた。

ベットの中から、ドアの隙間から漏れる明かりがいつも愛おしいと感じていた。

パソコンを打つ音が、子守唄のように聞こえていた。

私は幸せを感じながら、いつも深い眠りについていた。

それがなくなったのは、実が大きなデザイン事務所に就職してからだった。

友人に誘われて入ったその会社で、実は大きな功績をあげたらしい。

社長に気に入られて、大きな仕事が実にばかり任せられるようになった。

当然、仕事でヘトヘトに疲れて帰ってくるから、お風呂にも入らずにベットに

一直線。会話もなく、2秒で実は鼾をたて始めた。

朝は私の方が早く家を出る。普通の会社より出社時間が遅い実が起きるのは、

ちょうど私の準備が終わり、玄関で靴を履いている時。

見送りに来てくれる実とおはようのキスの時間が、唯一のコミュニケーション。

切なさと愛おしさが湧き出てくる時間でもある。

もっと抱き合いたい。もっと二人の時間が欲しいと、切に思う。

なのに、ここ5ヶ月間、まったくそんな時間を持てないでいる。

実がどう考えているのか分からない。

彼も同じ気持ちであって欲しいと思う。そうだとしたら、私の不満が

どれほどのものか、理解してくれているはずだから。