記;20,08,03

 

 きょう、五つの記事を一気に書いた。勢いだけで書いたし、推敲をしていないから、語尾の処理が重複していたり、今書いている文章も「単文」ではない。不備ばかりが目立つ「悪文」である。

 自分は昔から、「書きフェチ」である。小学生のころ、心がもやもやしたとき、何か字を書くと気持ちが落ち着いた。元々字は上手ではない。大学四回生のときに行った教育実習では、最終日に集めた担当クラスの生徒からのアンケートに、ほぼ全員が、わたしの悪いところについて、

「字が汚い」

 と書いていたほどだ。

 気分が字に現われることは、誰にもあることではないだろうか? 自分は昔から、自分で把握しきれない「今の本心」を、そのときの自分が書いた文字によって認識していた。

 しかし二十年以上前、書字が不自由になった。そうして自分は心を病んだ。

 小説を書く分には、パソコンがあって良かったと、時代に感謝している。パソコンがなく、outputもすることができなかったら、自分はとっくに自殺していた。断言できる。

 しかし。特に読点を打つ位置について、

「手書きやったらどこに打つかな?」

 と、自分はよく悩む。

「この漢字、手書きやったらどうしたかな? ひらがなでいいヤロか?」

 これは常に抱えている迷いである。

 占いは、思いのほか字を書くことが多い。毎日復習とリハビリを兼ねて、台北で「解きかた」を教わった「問題」を解いている。

 指先が思うように動かせないので、字を書くことにもパソコンを打つことにも、とにかく気力を使う。そうして肩が異様にこり、気力がすり減って行く。体を動かすわけではないのに気力の消耗で疲れ果てるから、運動不足になり、中年太りが進行する……。

 ま、年単位で比べたら、手は確実に快復している。ここまで引きずったのだ。ぼちぼち行こう。