長くなると思います。

 きのう、「コロナ禍の梅雨末期」シリーズの、一日一話四百字のエッセイを、九話書きました。情けなくなるほど、頭のキレが鈍っていることを実感した記事になっています。あすからupされていきますので、どうか嗤ってやってくださいませ。

 きょうは水曜日、自分にとっては「稼働日の始まりの曜日」です。今、八時四十四分。普段なら九時から「稼働」します。そろそろスマホのアラームが鳴ります。でも「平日」の「通常業務」へ入る前に、脳みそに、まるで蜘蛛の巣のようにわだかまっている「何か」を放出せずにはいられない感じがして、こうしてエッセイを書くことにしました。

 

 きのう書いた一連のエッセイでも触れているのですが、先週の土曜日の午後、テレビが壊れてしまいました。十二年半がんばってくれました。新しいテレビは、十万円以上はするだろうと覚悟をしていたのですが、予想の半分以下で手に入りました。出費があるだけでも今の自分にはかなりの苦痛なのですが、自室にテレビがないととても退屈です。

 幸い我が家には、自室以外の場所にもテレビがあり、特に洋間のテレビは食事時以外に使われることのない、気の毒なかた(?)です。なので最近は洋間のテレビを見ることが多いです。

 梅雨末期。午後は気ままに過ごすことを自分に許しています。これまではベッドに寝そべってテレビを眺めていました。しかし自室のテレビが壊れた今、洋室でごろごろとしていると、同居している母に対する罪悪感が湧いてきます。居候の身分でごろごろとしていることが、後ろめたく思われるのです。といって、自室は階下より陽当たりが良いため室温も上がりやすく、自室にいるとエアコンをつけずには過ごせないですが、一階なら陽当たりが良くないせいで涼しく、光熱費を浮かせることができて、その点では良いのです。

 夜、風呂上がりは、一階の洋間でテレビを見ます。しかし朝は、通常Eテレを見るともなしに見ながら、食事をとったりネットニュースを見たりしていました。朝七時台、八時台のEテレの番組は、好きなものが多いです。

 そこで、YouTubeで、『みいつけた!』をupしているのを見つけ、スマホで流しています。

 

 テレビのない生活。

 二年前の台北留学中のことを思い出します。

 台北で滞在していた「寮」の部屋にもテレビはありました。しかし、部屋が狭く壁も薄いのに、テレビのボリュームを一番小さくしても、周りの部屋へ音が漏れそうだったので、初日に一度つけたきりでテレビをつけることはやめました。もっとも、台湾のことばで語られるテレビの内容を理解することもできなかったのですが。あとで聞くと、一日中日本のドラマを放映しているチャンネルがあるそうなのですが、台湾のテレビはとてもチャンネル数が多くて、どのチャンネルが日本のドラマのチャンネルかもわからなかったので、まあそれはそれで良かったのです。

 朝はスピーカーにセットしたウォークマンで音楽を聴き、夜、風呂上がりにスキンケアをするときは、やはりYouTubeで『笑点』を観ていました。歌丸師匠が司会をされているチャンネルで、毎晩一話ずつ観ました。自分が台北へ滞在しているときに歌丸師匠は亡くなられたのですが、そのニュースをネットで見た前の夜も、その夜も、自分はYouTubeで歌丸師匠が司会をされる大喜利を観ていました。亡くなられた実感が湧きませんでした。

 

・胃痛を経験したことによる朝の段取りの変化

 それまでの自分は、朝、

1お白湯で薬を飲む

2コーヒーを飲む(五月終わりからアイスコーヒーを、マグカップで二杯ずつ飲むようになっていました)

 朝食は基本的にとらない。

 という状態でした。

 これまで何年もそれでなんともなかったのですが――ときおり強いストレスを感じたときにだけ、胃に不快感を覚えることは、稀にはありました――、朝食ヌキでアイスコーヒー二杯は、さすがに胃に悪かろうと思い、最近は朝食をちゃんと食べ、食べてから薬を飲み、コーヒーも飲むというように変わりました。

 

・SNS

 胃を悪くしていた六月。木村花さんの事件以降、「批判と誹謗中傷」云々ということについて、一部の人たちが神経質になっているように感じます。自分は自分で「電波障害」の影響によって幾分ナーバスになっているのは認めているので、梅雨が明けたら認識が変わるかもしれません。

 しかし。最近は、政府を批判する意見を書くことに強いためらいを覚えるようになりました。賛同できる意見へ「いいね!」ボタンを押すのさえ、できなくなっています。それすらも「共謀」とみなされるんじゃないかと、怯えています。

 選挙へ行かなかったとテレビで堂々と宣言をした、かなり影響力のある芸人さんが、わたしが拝見しているかたがたのあいだでは、非難されています。

「反対しないことは、賛成していることと同じ」

 という考えかたの人たちを多くフォローしているので、今の自分は卑怯だなとも感じます。

 しかし。Twitterの中だけが自己表現の場でもないと考えます。Twitterで発信はしなくても――発信したところで自分のフォロワーで、自分のtweetをちゃんと読んでくれている人もいないのが現実なのです(苦笑)――、日々起きているできごとに対して、これについてはこう、あれについてはああだ、という、自分の意見、思考の方向性は定めています。「いいね!」をするのに怯えて、そうできないことが、時折切なく感じられることもあるほどです。

 一方で。最近の自分が創ろうとしている小説は、「おとな向けのファンタジー」というジャンルを目指しています。その中で、メタファー(隠喩)として、批判なり誹謗中傷めいたことなり、snsでは言えないことをメッセージとして詰め込むことができたらいいなと考えています。あくまでもメタファーなので、わからない人にはそれが何の隠喩なのか、わからなくてもいいし、わからなくても楽しんで読んでもらえるものが書けたらいいな、そういうものを創りたいな、と……これもまた、梅雨が明けたら、の幻想です。

 

・笑点特大号若手大喜利

 メンバーの中で、一番お気に入りの噺家さんがいます。これも胃痛のころ、だらだらとスマホをいじっていたら、その噺家さんがTwitterをされていることを知りました。フォローしました。

 するとそのかたはすぐに、フォローバックしてくれました!

 有名なかたなので、フォローしている人が千何人もいるので、自分のTweetがそのかたの目に止まることはないと思います。

 しかし、そのかたのTweetにはあまり反応がないので、時に自分がコメントをすると、きっちりとお返事をくださいます。かなり嬉しいことです。

 そのかたがTwitterで、Instagramを始めたと書かれました。自分はそちらもフォローしました。すると。そのかたはインスタでもフォローバックの申請をしてくださいました!

 自分のInstagramは友だちのみに公開、いわゆる「友アカ」なので、旅先で撮った自分の写真も載せています。しかも、最近はインスタを見る機会も減っていれば、載せることはほとんどありません。

 しかし、例の噺家さんは、インスタでもやはり多くの人をフォローされているので、自分のぶちゃいくな顔をご覧になることもなかろうと思い、申請を許可しました。

 こんなふうに、テレビの中の有名なかたと、こんなにも簡単に「お友だち」になれる時代なんだな、と実感しています。

 二十年来自分が(たぶん)「勘違い」をして惚れてきたかたとは、こんな便利な時代なのに、snsの中でさえつながれない。よほどご縁がないのだなと苦笑します。或いは、お近づきにならないほうがいいのかもしれません。二十年以上のあいだに勝手な人物像ができていて、実際にその人を知ったら、幻滅していくことになるようにも思います。そのかたとは、できるだけ近づかないようにしよう、と決めたのは、コロナ禍がひどくなる前、三月くらいだったでしょうか。コロナ禍になったらいよいよ、その人に近づく機会もなくなり、あったとしても、今の心境では、その機会からも逃げる心づもりでいます。そうして「断末魔」が息絶えてしまうのを、心待ちにしているのであります。

 

・趣味

 胃痛のあいだは、テレビを眺めるのもしんどく、ひたすらYouTubeで志ん生師匠の落語を流していました。いろんな噺家さんの動画を聴きましたが、志ん生師匠が自分には一番馴染むのです。

 やがて、読書ができるようになりました。

 そして最近、ようやく、LINEツムツムができるようになりました。ゲームは肩がこりますが、元気が出てきた証拠かなと感じています。ほどほどに、楽しみます。

 

 昨夜一時間半ほど読書をしました。(江戸川乱歩を読んでいます。面白いです!)

 読書をする姿勢が悪かったようで、右の肩甲骨が今朝も痛んでいます。

 ああそう。最近アプリでヨガもしています。一日ごとに難しい運動へと進んでいくアプリなのですが、敢えて一日目しかしていません。一日目の内容を、もの覚えの悪い自分、自分の体が覚えてしまうまで、しつっこく繰り返しています。昨夜は肩甲骨に違和感があったので、ヨガをしたらましになるかなと思ったのですが、今朝起きてもまだ痛んでいます。

 これからまたヨガをしたら、少しはましになるかもしれません。

 

 さて。そろそろ始動します。

 長文、失礼致しました(痛み入ります!?)

(原稿用紙一〇枚くらい)