小学生のころからナマイキだったわたしは、いかにも「子ども向け」に薄味加工を施された本を読むことが、バカにされているように感じられて、ちっとも好きではなかった。かといって、おとな向けの本を読んで理解することができるほどの読解力もなく、そもそも漢字も知らず、だからいわゆる「活字離れ」をしたガキだった。
 そんなわたしが中学生になったころ、眉村卓先生が原作をされた『ねらわれた学園』が映画化された。映画は観なかったけれど、原作を読んだ。生まれて初めて本を読むことを楽しいと感じた。それから眉村先生の作品ばかりを何冊か読んだけれど、当時運動部に所属していたわたしは、時間がないことを言い訳に、星新一先生のショートショート小説へと「浮気」をして行ったのだった。
 
 ということを、眉村先生にもお話したことがある。
 
 わたしがSF小説を書きたいなと本気で感じて、結果まったくの見当違いだったのではあるけれど、「SF小説を書くための理系への足がかりが欲しい!」と望んで、気象予報士の資格をとるきっかけになったのは、アメリカのSFドラマシリーズ『STAR TREK』、ピカード艦長のヤツだ。
 
 それからさらに歳月を経て、大学時代の卒業制作をご指導くださった阪井敏夫先生(葉山郁夫氏)へ電話をかけて、もっと小説が上達するにはどうしたらいいですかと、漠然としたことを尋ねた。
 すると阪井先生は、わたしの執筆活動を厳しくお叱りになった。阪井先生は、今では大阪文学学校というところの校長をされていて、関西の新聞ではたまにお写真の入った、わりと大きな記事を拝見することがある。
「あなたが書く傾向は、うちの大学とは合わんと思うけど、ついこのあいだから眉村さんが、神戸で文章教室をひらいてはる。
 眉村さんのとこへ行きなさい!」
 厳命された。
 それが2011年の秋のことだったから、大学を出てから15年経って、眉村先生と再会することになったのだった。阪井先生へ無謀な電話をしなければ――わたしはしょっちゅういろんな人へ、「無謀な電話」をするクセ? がある。山中伸弥先生がセンター長をされているiPS研究所へも電話をかけたことがある。恥知らずのアホです(苦笑)――、眉村先生とのご縁はなかったわけで、阪井先生へも心底感謝をしている。
 
 眉村先生の教室へ通い始めて、SF小説を書くためには、SF小説を読まないとだめなのだな、という、当たり前のことを思い知らされた。『STAR TREK』をいくら繰り返し観たところで、SF小説を創れるようにはならないのだ。
 そこでやっと、SF小説を読むようになった。
 大学4回生のとき、眉村先生の講座を履修した。そのときの講義の教材に、海外の長編SF小説が5冊くらいあったのだけれど、そのころはまた「活字離れ」をしていたわたしは、確か1冊も読んでいなかった。でも、家に本は残っていた。まずはそれから読み始めた。なんたって、眉村先生がご自身の講座のためにチョイスしてくださったものなのだから、ためになるに決まっている。
 そうすると、でき損ないではあるなりに、SF小説のような発想が湧いて来るようになった。文章教室で、先生に鍛えてもらうつもりで、しつこく持って行った。毎回、かなり厳しく叱られた。それでも懲りずに提出しつづけた。
 そうしているとあるとき先生が、
「チャーリーさんに、これを持って来たんですよ」
 とおっしゃって、いつも持ち歩いておられる、黒い大きなかばんのなかから、3冊の本を取り出された。すべてSF小説だった。フィリップ・K・ディックの『虚空の眼』の見開きには、眉村先生の筆跡で、何やら鉛筆の走り書きもされていた。
(これは別にわたしの自慢ではなくて、あ、いや、嬉しかったし自慢したいのは認めますが、眉村先生は、どんな受講生へも分け隔てなく、その人を伸ばすために有意義であろうと思われる本があれば、貸してくださったり、ときには差し上げている場面を拝見したこともあります。そういうかたなのです。わたしは当然お返ししましたけどネ)
 わたしは、今でも全然ままならないが、いつかはSF小説を書きたいと思っているから、講座のあとにみんなで行くサイゼリヤで先生の近くに座れたら、どうしたらSF小説を書けるかについて、いつもしつこく尋ねた。先生が書かれたSF小説について話をすると、その裏話を聞かせてくださることもあった。
「あれ書いたときねぇ、出版社の人が『なんやこれぇ』って言うたんですよ」
 などなど。嬉しそうに笑っていらした。
 わたしは先生の最高傑作としていくつもの評価を得ている『消滅の光輪』を、早く読んでみたかった。
 しかし先生へそう申し上げると、
「それよりも先に、『司政官』の短編を読んだほうがいいですよ」
 と言われた。なぜだかわからない。実は『司政官』の短編集は、持ってはいるがまだ読んではいないのだ。
 
 それからもわたしは手当たり次第にSF小説を読んだ、とは言え、読むのが遅いので、数は少ないし、記憶力が乏しいためにちっとも身にはなっていないのであるが。
 あるとき、
「このあいだやっと『ソラリスの日のもとに』を読み終わりました。しんどかったです」
 と言った。スタニワフ・レムの、あれである。
 すると眉村先生は、
「それやったら『消滅の光輪』を読めるかもしれませんよ」
 と、少し興奮されていたような気がする。
 わたしは、やっと先生からの「許可」が下りたことを喜んで――別にそれまでだって禁止令が出ていたわけではないのだけれど――、『消滅の光輪』を読み始めた。
 
 先生の作品は、どれもとてもわかりやすくて読みやすい。
 しかしこの『消滅の光輪』は、物語のスケールも大きいし、展開が読めなくて、感情移入することもできて、とても面白かった。
 上下巻あって、下巻の真ん中くらいまで読んだ日、ちょうど文章教室で眉村先生とお会いした。先生に、このへんまで読めたところですよと報告をすると先生は、「しめしめ」と言わんばかりの嬉しそうなお顔をされた。「つづきに何が起きるか、お楽しみに」といったご気分なのだろうと感じた。
 文章教室は、先生のご指導も刺激的だし、受講生も個性的な人たちが集まっているから、帰りの電車ではわたしは頭のなかの余韻を咀嚼するのに費やさないといけない。だけどその帰りの電車のなかだけは、『消滅の光輪』のつづきが気になって仕方がなく、本をひらいた。ちょうど最寄り駅へ着くころに、読み終えることができた。すがすがしい気分が残った。
 
 そんな、何をほっぽり出してもつづきが気になって仕方がない衝動に、読者が駆られるほど、没入させることができる小説を、わたしも書いてみたい。心底そう思うし、そのための努力なら、なんだってするだろう。
 
 眉村先生は、『消滅の光輪』を書き終えたから、飛行機に乗るのがこわくなくなった、いつ死んでもいいと思えるようになった、と言われたことがある。
「これを書くまでは死ねない、という気持ちで書きなさい」
 と、講座で言われたこともあるのは、ご自身のご体験だったのかもしれない。
 
 先日先生のお通夜へ行った。席に着くと筒井康隆先生の花輪が、一番目立つ位置に飾ってあって、それを見たとたんに、涙が止まらなくなった。遺影なんて、ほとんど直視できなかった。
 お焼香に立つのは、いやだった。認めたくなかったから。受け入れてなかったから。
 でも、気持ちを切り替えて、涙を抑えて、お焼香の列に並んだ。
 お焼香盆が近づくにつれて、先生の位牌に書かれた文字が見えて来た……。
 
 お通夜のあとで、お通夜には来られなかったけれど、先生のことがわたしよりずっと大好きなお姉さんと、電話で長話をした。そのかたのほうがわたしよりも、先生の作品をたくさん読まれている。当然、『消滅の光輪』も読まれているのに、そのかたも、不思議と、『司政官』のほうは、わたしと同じで、持ってはいるけれど読んではいないとのことだった。
 眉村先生の法名(先生の宗旨である浄土真宗では、戒名ではなく法名というらしい、ということに、我が家も同じ宗旨なのに、最近気づいた)は、
「釈光輪」
 電話でお伝えすると、その人とわたしは同時に、号泣した……。
 
 浄土真宗ではお経のなかに「光輪」ということばが出て来る、という話題も耳には入っている。
 だけど、小説のエンディングを読者に委ねるという手法があるように、先生のお名前だって、どうしてその文字をお選びになられたか、わたしたちで判断してもいいんじゃないかなと思う。それはその人の自由だ。答えを教えてくれるかたがおられたら伺うけれど、わたしとしては『消滅の光輪』に起因すると、願いたい、というのは、1ファンの勝手な我がままなんだろうか。