ニュースでも報道されたように、きのう、眉村卓先生がお亡くなりになられた。

 ちょうどきのう、11月03日は、眉村先生がご指導をされていた文章教室でお世話になっていた、アニさんのお誕生日だった。
 正午前。わたしは先生の訃報を知らず、のんきに、アニさんへ、お誕生日おめでとうと、久々のメッセージを送った。
 その直後。
 文章教室のグループLINEに、みんなが次々と、
「受け入れられません」
「ずっと泣いています」
 などと書き込みを始めた。
 わたしは仕事先だったのだけれど、することがなく退屈をしていたので、Yahoo!ニュースを更新し、そのあまりにも衝撃の大きな真実を知った。放心、混乱……帰りの車の運転に不安を覚えるほどで、動揺を鎮めるために、普段よりずい分早く、持ち歩いている安定剤を飲んだ。
 くだんのアニさんは、わたしより10歳年上で、わたしなんかよりずっとたくさんSF作品(小説に限らず映画も)を知っている。眉村先生もアニさんの膨大な知識にはかなり目をかけていらして、アニさんの作品を、よくほかの受講生の前でも誉めていらした。「相思相愛」のように思えたけれど、
「アニさんくらいの人になら、当然の評価やわな」
 と、嫉妬さえ感じなかった。アニさんの知識にも技術にも実績にも、わたしなんて到底及ばないから。
 そんなアニさんは、わたし以上に、眉村先生を敬愛されていた。特徴的なエピソードが、今思い付くだけでも、2つある。
 眉村先生の代表作の1つである『消滅の光輪』を、アニさんはまだ読んでいないと言った。この作品は、眉村先生ご自身も、
「あれを書き終えることができたから、いつ死んでもいいと思いました」
 とおっしゃったことがあるほどで、わたしのテキストとして、デスクの周りに置いてある(上下巻ともに先生のサイン入りなので、ぜーったいに誰にも貸さない!)。
 恐らくアニさんとしては、眉村先生の代表作であるからこそ、お楽しみをあと回しにされているのだろうと邪推した。
 次に。去年の春、眉村先生が文章教室を閉鎖されることが決まった、最後の講座のあと。みんなでツーショットの写真を撮り合ったり、集合写真を事務所の人に撮影してもらったり、先生と握手をしてもらったりした。わたしはアニさんと先生のツーショットの写真を撮った、というか、撮らせた。そのあとアニさんに、
「握手、してもらわへんのですか?」
 と尋ねたら、アニさんは、
「それは次、再会するときに」
 と答えた。わたしは、ツーショットの写真を無理強いしてしまったんじゃないかと、自分の浅はかさを悔やんだ。
 
 眉村先生はたぶん、アニさんのお誕生日をご存じではなかっただろう。でもわたしには、そこに、とても象徴的な意味を感じている。
 わたしが持ち歩いている手帳には、11月03日の欄に、赤い字で「アニさん」、青い字で「'19先生」と、並んで書かれることになった。
 昨夜、22時すぎに、アニさんからLINEのメッセージが届いた。きのうもきょうもあしたも、アニさんはお仕事なのだそうだ。
「こんなときは忙しいほうがいい」
 そんなことを書いておられた。同感だ。さらに、
「これからゆっくりと喪失感がやって来るんでしょうね」
 とも書いた。
 喪失感は、きっと、大事な人を亡くした事実を、受け入れて初めて感じるものなのかもしれない、とすると、アニさんはまた、受け入れてさえいないのかと思い、アニさんの眉村先生への敬意や憧れや、あるいは既存のことばでは表現しきれないような深く強い思いに、心を打たれた。
 アニさんのお仕事は、夜遅くて朝が早い。昨夜早くに寝つくことはできたろうか?
 
 わたしは昨夜、いつもと同じ21時ごろに睡眠薬をのんだ。最近は1種類で眠れるようになっていたのだけれど、昨夜はアカンだろうと思い、3種類を飲んだ。しかし、午前01時を過ぎるまで眠れなかった。
 
 先月の20日が、眉村先生のお誕生日だった。わたしは長い手紙を送った。先生からするとわたしは、デキも悪いし面倒な教え子だっただろう。
 先月の24日。雨が降っていた。お昼過ぎに仕事から帰宅し、ポストを見ると、眉村先生から直筆のおはがきが届いていた。濡れないように、胸に押し付けるようにして、家へ持ち入った。
 今も入院していること、指が思うようやなに動かないこと、声も出にくいこと。
 そんな文章とともに、眉村先生のキャラクターである「卓ちゃん」が、お辞儀をしているイラストが添えられていた。
 わたしは、先生はまた退院をされて、新しい本を出され、わたしたちに新しい世界を見させてくださると、信じていた。
 きのうはちょうど、わたしがあのはがきを受け取ってから、10日後だった。
 
 今朝。
 眠りは足りていなかったけれど、仕事へ行く前の、せめて1時間だけでも、と思い、長編小説の構想をつくった。
 1時間で切り上げて、仕事に行く準備をしながら、考えた。
「眉村先生には、あたたかく、厳しいご指導を受けた。それはとても的確で、なのに何度同じことを指摘されても改善しなかったし、プロになることはもちろん、大きな賞の一次選考に残ったことさえない。先生にご恩返しができなかったことがただただ無念ではある。
 だけど、きっと先生はどこかで見ていてくださる。『わたしだけを』というのではない。講座で、えこひいきすることなく、すべての受講生に対して公平でおられたように、先生に師事したことのある受講生、みんなのことを、先生はずっと、等しく気に掛けてくださるに違いない
 だから、わたしは、この先何10年かかってもいい(ほんとは1日も早いほうがいいけれど、今の実力を鑑みれば、それは無謀であろう)。つねに書きつづけて、一生を費やしてでも、眉村先生にご恩返しをしよう」
 
 デスクの周りには、『消滅の光輪』の文庫本だけではなく、先生からいただいたおはがきや、新聞記事の切り抜きを置いている。写真立てにはまだわたしが少し痩せていたころに撮らせて頂いた、ツーショットの写真を飾っている。自分を新聞の切り抜きで隠し、眉村先生だけが見えるように工夫していて、これまでも毎朝一番に、先生にあいさつをしていた。今朝もした。これからもする。
 
 養父の月命日も03日だ。確か先生とは宗旨も同じだったはずだから、毎月お仏壇に手を合わせよう。
 向こうの世界のメカニズムは知らないが、先に向こうへ行っているオヤジと眉村先生が会うようなことがあったら、2人でわたしの文句を言うんだろうな。