元々筆が遅く、しかもこのコロナ絡みで仕事もバタバタして、自身の体調もありずいぶん間が空いてしまいました。

そんな中でもこんな地の果ての些末なブログを通り過ぎ、いいねまで押してくださった皆さん、本当にありがとうございます。

 

勤務先本社のあるマレーシアでも徐々に制限が緩和され、普段の生活に戻りつつあるようです。

結果論ではありますけど、マレーシアでは感染者、死者ともにかなり低く抑えられたようです。

これに関する私見は前回書きましたので繰り返しませんけど、でもフィンランドや台湾のように誰の目にも感染拡大防止対策に成功した国もあれば(マレーシアもその一国と思います)、そうならなかった国もある。

 

ところで日本は成功したのだろうか?

僕は、失敗はしていないが大成功でもなかったと思う。

理由は、前回も書きましたが、日本の医療設備、技術をもってすればもっと死者を少なく抑えられたであろう、と思うから。

 

最近中堅の、それでも結構な入院施設を持つ病院に通院、入院したのですが、そこは今までのコロナ患者ゼロだそうです。

ゼロに抑え込んだ理由はただ一点、呼吸器系の医師のいない病院だから。

 

来院者全員に対し玄関でのアルコール消毒、検温を行い、過去二週間の高熱履歴の確認と併せ、一点でも該当すれば来院拒否だそうだ。

その結果、結構なご老人も多く入院している病院でありながら、一人のコロナ患者も発生させていない。

 

それを良い、悪いというのではなく、結果としてこれだけの作業で外来のコロナ患者を防げている(コントロールできている)ということが素晴らしいと思います。

 

もちろんコロナであろう(または疑わしい)人を受け入れなくてはならない病院には、計り知れない感染リスクがあり、そのリスクを背負いながら日々治療にあたってくれている医療関係者の方々には感謝しかないが、やはり院内感染を起こす病院は意識がそこまで高くなかったのかなと思ってしまいます。

 

あと患者の方も。

 

昨日テレビでとある医師の方がインタビューされていて、内容は先月発熱症状のキャバクラ従業員が来院し無症状のため一週間自宅で様子を見るよう指示したところ、数日後に同じ店の別の従業員が同症状で来院、気になり前の患者さんは休んでいますか?と聞いたところ普通に出勤していた。

慌ててその患者も呼んでPCR検査を行ったところ、二人とも陽性。

 

まさか自分がコロナにかかっているなんて思いもしなかったそうだ。

せめて医師の言う通り一週間安静にしていれば二次感染は防げたかもしれないのに。

言い方悪いけど、こういう意識の人がクラスターの発生元になっていたんじゃないのかなと思ってしまいました。

 

今は夜の街の方が結構目の敵にされていますが、このキャバクラ店員さんとは逆に報道の範囲ではありますけど努力してる夜の街の方もけっこう多いですよ。

アルコール消毒、入店時の検温、フィジカルディスタンス、マスク、フェイスシールドは当たり前かもしれないけれど、グラスの管理とマドラーの代わりにストローを使用とか。

 

当たり前ですよね、皆さん生活かかってるんだから。

こんな事でまた営業自粛とか言われたらたまったものではないし。

 

でもどんな業種でもそうですが、みな一様ではないと思います。

意識の高い人、店もあれば、そうじゃないところもある。

 

それをひとくくりにして「だから夜の街は・・・」というのもなんだかな。

 

 

ところで今日は都知事選挙ですね、都民の皆さんはもう行かれましたか?

自分は隣県民なので投票権はありませんが、まあ首都東京のことなのでいろいろニュースは目に入ってしまいます。

 

前回のブログで心配したコロナの爆発的感染は、2か月間の活動自粛(実態は国民の善意頼みのロックダウンでしたが)でどうにか抑えられたようですが、都知事候補の方々はここ数日増え続ける感染者数をさも失政のように訴えていて、これがちょっと我慢できずまた殴り書いてしまいました。笑

 

乱暴な言い方ですけど、今見つかっている人数にはあまり心配していません。

なぜなら集団検診など積極的に見つけに行って、見つかっている人数だから。

以前は「見ないふり」(積極的に検査をしない)をしていても見つかってしまった人数だったので、潜在的な感染者数を想像するととてもこわいものがありました。なのに多くの人たちはその数字だけを取り上げ不毛な議論をする、はたまた不思議な自己満理論を持ち出す。

 

まあ内容は書くときりないんですけど、これが日本の首都東京の首長を選ぶ選挙か?と首をかしげてしまうような。

投票率も期日前投票は増えたものの、全体では前回以上になるか微妙そうだし。

 

選挙戦も、できればもう少し高いレベルの(未来への首都の在り方とか)議論してほしかったかな、と思います。(都民じゃないですが実家はまだあるので)

 

去年の参院選も、投票率48.8%って有権者の半分も選挙に行っていない。

これで与党が過半数を取っているのだから、まあまあ国民の3/4くらいは今の政治や国会運営に満足か、野党よりはましだと思っている、と言うことになるんだろうけど国民感情と合っているのかな。

みんな幸せなのかな???

 

たとえ支持したい人や政党がなくても、こいつ(ら)じゃだめだと思う人や政党があったら、それに対するカウンターは「抵抗勢力(古っ)」です。

反対する人々の声が小さいほど、悪さしようとする人たちはのびのびと悪さをするでしょう。

だからもし今の政治に不満があるなら、選挙に行って与党への抵抗勢力を育ててあげないと。

 

 

読み返してみると今日は本当に書き殴ってますね、チラ裏並みに。

お見苦しい記事で失礼しました。

次回からはもう少し整理して読みやすいブログになるよう心がけます。

自分のブログもまだ序章すら書き終わっていないしブログの方向とも少し違うのですが、世界中で猛威を振るっている新型コロナウィルスについて、日本と海外との対応の差がとても大きく気になるので、今日はそちらを書きたいと思います。

 

 

日本は優れた医療設備と技術を持っているのに方策を間違えていて、この先新型コロナウィルスが爆発的に感染が広がってしまうのではないかと危惧しています。

 

今の勤務先はマレーシアの会社の日本法人なので、日本ではあまり報道されないものの現地情報については随時連絡があり、国の方策は日本とは大きく異なります。

 

今マレーシアではロックダウンが行われていて、海外から人が訪れることはできません。

マレーシア人は会社に出社することができず、日々の買い出し程度以外の外出も制限されています。

また渡航先からマレーシアに戻ることはできますが、海外に出ることはできません。

 

国の対応もスピーディーで、3月16日に政府決定がされた翌々日18日から実施されました。

当初の予定では4月6日まででしたが、今は14日まで延長されました。

 

製造業は、生活インフラ関連を除き原則操業停止になりました。

その後、外国人労働者(マレーシアには近隣諸国から出稼ぎに来る人が大勢います)に限り人数を絞って操業再開することが許されましたが、政府への事前申請が必要で人数も絞られるため、稼働率は10-20%にまで落ちています。

マレーシアも他のアジア諸国と同様製造業が盛んですが、この様な損失を覚悟のうえで今もロックダウンを続けています。

 

振り返って日本はどうでしょう?

 

自国民に対し、外出を自粛して!3つの「密」を避けて!とは呼びかけるものの他には何もせず、当初少なかった感染者は日に日に増えているのが現状です。

 

マスクは1世帯2枚もらえるそうですが。

 

そして一番の問題は、移動制限をかけないのにPCR検査に積極的ではないことです。

昨日も女性芸人の方が陽性判定されたそうですが、彼女はその前からPCR検査を申し込んでいたにもかかわらず症状が軽かったからか断られていたそうで、何度も頼みこんでようやく検査をしてもらえ、陽性が発覚したそうです。

 

これではこの先もクラスター感染は防げないでしょう。

 

「今」は2週間前の答え合わせだと思います。

2週間前にはもう多くの人がコロナウィルスについては知っていたはずで、であれば当時感染を広げてしまった人たちは、症状が軽微だったり自覚症状のなかった人が大半だと思います。

 

その人たちからの感染を防げなかったことが日本のやり方の間違っていた結果だと思います。

 

アメリカは、日本に滞在する自国民に対し帰国勧告を出しました。

日本のPCR検査率が低いため感染者数が実態より低く出ているのでは、と危惧してのものです。(つまり日本にとどまることはリスクが高い、と)

 

日本は島国で、なんだかんだ言っても海外由来の疫病には少し縁遠く感じがちだと思います。

 

でも外にいる限りこのウィルスに感染するリスクは十分あり、今それを防ぐ手立ては家にこもること以外にありません。

 

 

このウィルスがなければ失われるはずのなかった命が今、確実に失われています。

 

そしてグズグズの対応が元で、テーマパークや飲食店、接客業に従事する人の生活が脅かされています。

この人たちを救うためには、また人々が安心して表を歩けるようにな環境に戻さなければなりません。

 

すでに医療崩壊の危機を訴える人もロックダウンを提言する人も多く表れています。

政府も地方自治体も、もっと知恵ある人たちの声に耳を傾けてほしいと思います。

父の思い出はそうたくさんないが、父のことを好きか嫌いかと言えば大好きだった。

 

うちは兄弟三人で僕は末っ子。

すぐ上の兄は7歳上、長兄は9歳上、おそらく父も歳をとり丸くなったのだろう。

上二人に対する躾けの武勇伝(笑)は色々聞かされたが、僕はそれほど叱られた記憶がない。

父の会社が遠く仕事も忙しく、接する時間も短かったせいもあるかも知れないが。

 

父は時々仕事帰りに近所の寿司屋に寄っていて、たまに家に電話が来てまだ小さい末っ子の僕だけ呼ばれ、お相伴に預かっていた(まあたくさんは食べないし)。

そしてそうではない時も大抵、これも昭和の父親定番の折詰のお寿司を持って帰ってきた。

 

思えば僕の行動や趣味趣向は父にとても似ていた。

車が好き、新しいもの(主に家電)が好き、良いものを選びそして安く買う、そして子煩悩などなど。

 

自分が大きくなって父もまだ生きていたらどうなったのだろう?

父に寄り添いミニコピーのようになっていたのか、あるいは反抗期になって父とは違う道を選んでいたのか?

 

父がもういないので、この答え合わせは一生できない。

正直父親の記憶はあまり多くありません。

 

社宅を出て今の実家に越してから、おそらく片道1時間以上かけて通勤していた

ので、平日は自分が起きるかどうか位の時間に出勤し、夜は寝た後に帰宅する

ことがざらでした。

その分、休みの日は昼近くまで寝ていることが多かったので。

 

昭和のお父さんですかね。(笑)

 

思い出と言えば、毎年大みそかの夜家を出て成田山に初詣にいってたこととか

(眠かった)、一度だけですが家族で泊りで海水浴に行ったこととか(家に泥棒が

入った)、父の実家に車で帰省したりとか(子供だったので車酔いで迷惑かけました)、

本当に数えるくらい。

 

ただ人望のある人で、正月には会社の人たちが多く訪ねてきてくれて、おかげで

その人たちからお年玉をもらえることもありました。

 

後に聞いたのですが、父の勤めていた会社はその以前に倒産したかしそうになる

ほどお傾いたかで大変な時期があって、営業部長だった父は立て直しのため

朝から晩まで奔走していて結果会社は持ち直し、そんなこともあり部下や現場の

人に慕われていたそうです。

 

そんな父でしたが、ある年の元旦体調がすぐれずいつも行く初詣に行きませんでした。

 

そしてその年の10月9日、家族の中で最後の会話を僕は父としました。

夕方、中二だった僕は家に帰り母が買い物に出ている時、父から電話があったのです。

 

父「もしもし父さんだ、今夜は呑んで帰るから夕飯はいらないと母さんに伝えておいて」

僕「うん、分かった。 母さんに言っとく」

 

たったこれだけの会話でした。

当時は10月10日が体育の日だったので、翌日が休みのため父は旧友と飲みに行った

のです。

 

そしてその数時間後、一緒に呑んでいた父の友人から電話があり、父が意識を

失い倒れた、と。

 

父は呑んでいた店の近所の救急病院へ運ばれました。

 

しかし翌朝日の出る前に、父は意識が戻ることなく亡くなりました。

 

心配する間も悲しむ間もない出来事でした。

あまりにあっけない最後でした。

 

中二で、それまで親族にも不幸がなく、生まれて初めての葬儀が父親って・・・

しかも倒れてから家族誰とも話すことなく逝ってしまうなんて・・・

 

そして一番ショックだったは、救急隊の方がそう遠くない(数km)ところに脳神経

外科のある大学病院があるのでそちらに、と言ってくれたのに、一緒にいた人が

少しでも近くの病院に、と強く言ったためより近い、けど内科と小児科だけの小さな

診療所に搬送されたのです。

当然何の治療もできる訳はなく、ただベッドに寝かされていただけでした。

ちなみに搬送されるはずだった大学病院は今もあり、脳神経外科も高名です。

 

もちろんその人に悪気はありません、むしろ一刻も早く治療させたいからという

気持ちだったと思います。

もし大学病院に搬送されても助からなかったかもしれませんし。

 

でもこれで自分の人生観、死生観ははっきりしました。

 

人はいつか必ず死ぬしいつどこで死ぬかも分からない、なら生きているうちに

やりたいことをやろう。

人との付き合いで自分の運命は良くも悪くも変わるかもしれない、だから付き

合う人をよく見よう。

そして、家族と過ごす時間を削って尽くした会社ののちの母への対応を聞かされ、

自分は絶対サラリーマンにはならない、と。

 

結局サラリーマンにはなってしまいましたが、そこだけは父のようにはなりたく

ないと、評価と対価はいつも考えていました。

で、転職も何度もしましたし、途中からは外資で働くようになりましたが、このことは

またいつか。

 

 

あれから数十年、もう亡くなった父の歳をとうに超えてしまいましたが、今も

これほどの文字数で書けるほどあの時の記憶は鮮烈でした。

まず簡単に自己紹介から。

はるか昔東京の東の方で生まれ、当時は会社の社宅住まい。
3歳で真ん中のちょい西の方に引っ越し以後20年近く過ごし、

南西の方で一人暮らしを始めのちに結婚、川を超え今に至ります。


音楽との出会いは、小1で親に合唱団に入れられたとき。
なかなかやんちゃだった性格を少しでも丸めようと、親が決めてきました。

最初の楽器はドラム、3年生の時兄の影響で見よう見まねで始めました。
本当はギターを弾きたかったのですが、当時まだ手が小さくて・・・
でも中学に上がる頃にはようやく「F」が抑えられるようになり
それからは、ギターに傾倒していきました。

後に書くつもりですが、家庭の事情から当時「絶対リーマンにはならない」

と決めていたので、中学、高校の頃は家にいればずっとギターを抱えている

ギター小僧でした。

しかしあるきっかけで音楽の深さを知り、たぶんプロではやっていけないだろうな

とその道をあきらめ、忌み嫌っていたリーマンの道に戻り、それからは仕事一筋。

途中縁あって外資系企業に転職、その後も転職はしましたが日本企業に戻る

ことはありませんでした。


ちょっとはしょりすがぎましたか。
でもあいだの部分は追々書いていきます。