こんにちは。

まだまだ暑い日が続きますが
お盆を過ぎると若干、朝晩
暑さが和らいだような気がします(^^)


岡山県倉敷市でヒプノセラピー(前世療法、未来世療法、インナーチャイルド)を行なっています。
今、抱えている問題の根本原因を探り、原因のエネルギーを解放して本来のバランスを取り戻します。
前世への誘導率は98%と高く、ほとんどの方が前世を思い出しています。
東京、名古屋、大阪、広島、福岡でも個人セッション&セラピスト養成講座を行っています。

コロナ禍で、
長い間お休みしていた県外出張を始めました。
皆さまのご予約をお待ちしています(^o^)
 
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〈倉敷 対面セッション〉
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やっと、気力が上がってきました⤴⤴⤴チュー

しかし、ブログをアップするときドキドキ
緊張が走りましたが汗うさぎ

なんとか、うまくいきました(やれやれ)


では、さっそく、まずは、
黒田官兵衛の一生をさらっとお話ししますね。


とは、言っても
黒田官兵衛の人生自体が濃厚!なので(笑)
さらっと話しても長い!(笑)
どうぞお付き合いくださいニコニコ


黒田官兵衛くろだかんべえ

(ウィキペディアより)


1546年に現在の兵庫県姫路で生まれ

17才で初陣、22才のとき、結婚。
翌年に、嫡男「黒田長政」が誕生。

官兵衛は、側室を持たず、
生涯ひとりの女性を愛した愛妻家。

1573年代
織田信長 の家臣 豊臣秀吉 の配下に入ります。

1578年
織田信長に対してクーデターの気配がある
荒木村重を説得するために

単身で「有岡城」に行きましたが、
逆に捕らえられ、牢屋に幽閉。


しかし、
そのことをまったく知らない織田信長は
「官兵衛が荒木村重に寝返った!」と
勘違いして大激怒ムキー🔥


『官兵衛の息子・長政を殺せ!』と、
豊臣秀吉に命じます。

しかし、1年後、
豊臣秀吉軍が有岡城を陥落します。
そこで、黒田官兵衛は奇跡的に救出!

官兵衛の頭髪は抜け落ち、足腰は弱っていて
救出された官兵衛は、足に障害を負い、全身疥癬(かいせん:ダニの寄生による皮膚感染症)で、変わり果てていましたガーン

ここで初めて
豊臣秀吉は、黒田官兵衛が寝返っていなかったことを知り
官兵衛の息子・長政を処刑したことを泣いて詫びました(T_T)

しかし、実は、
豊臣秀吉が処刑を命じた 竹中半兵衛 が、
黒田長政を殺さずに匿っていたと判明します。

↑↑↑↑↑↑↑
ここに、わたしは感動😭(涙)(涙)

優秀でありながら、心があり、
状況に応じて的確な判断グッ
竹中半兵衛 好きだわ〜😍

このとき、
豊臣秀吉軍には最強と言われていた軍師
黒田官兵衛」と「竹中半兵衛」が
いました。

天下を取る人の側近は、
たいがい最強ですよねウインク


竹中半兵衛とは、
黒田官兵衛と共に豊臣秀吉に仕え
「両兵衛」と呼ばれました。


この件を聞いた
織田信長、豊臣秀吉、黒田官兵衛は、
竹中半兵衛に心から感謝しました。

ただし、このとき竹中半兵衛は、
黒田親子を気遣う手紙を残して
もうすでに、病死していたんです😭

↑↑↑↑↑↑↑↑
ここも、わたしは感動!涙がボロボロ😭
ほれてまうやろー笑い泣き

これ以降、
豊臣秀吉は、黒田官兵衛を重用するようになりました。

軍師として才能を発揮した黒田官兵衛。
稀代の智将と言われるほどの様々な戦略を押し出していきます。

○三木城の兵糧攻め
○鳥取城の渇殺し
○備中高松城の水攻め

1582年
明智光秀による「本能寺の変」で織田信長が死去。

家臣が混乱するなか、官兵衛は、
「天下が取れる、好機です」と進言。

さらに、
世にいう「中国大返し」をやってのけ。

明智光秀との「山崎の戦い」で討伐。


1583年
豊臣秀吉の天下統一

1585年
四国平定の際にも智将ぶりを発揮!

黒田官兵衛は、長宗我部元親の作戦を見抜き

長宗我部元親は、豊臣軍に取り囲まれてしまい、家臣に説得され、講話を受け入れることに。

長宗我部元親は、黒田官兵衛の智略に
負けたことをたいへん悔しがったそうです。



次回につづく