キャストのhajimeです。
問題解決のアイディアについて。
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なにか問題がおこるとスグ相手のせいにしがちだ。
場合によっては自分のせいにするのかもしれない。
しかし、本当に問題は相手にあるのか?自分にあるのか?
そんなことはないはずだ。
相手の存在は100%肯定されているものだし、自分も100%肯定されているものだ。
自分と相手の関係性において、社会通念を持ち出すのははなはだ厄介だ。
相手の特定ある部分に対する問題が仮に問題行動だとあなたが判断したとしても、それはあなたが感じているだけであって、でも…社会通念的に考えてみてもやっぱりそれはおかしい…そういう一般論はやめてしまえ。自分と相手の間にある関係性の中で問題が生じているだけで、理由に社会通念は持ち出すな。それは自分の意見だろうが。社会通念を理由にするな。自分の意見に誇りを持て。
こうするべき、ああするべきというのは確かに役に立つ場面もある。しかし、それは自分の解釈であって、相手の解釈一致しない場合のほうが多い。
だからといって決して自分の解釈が間違っているとそう言いたいのではない。
自分のべき論、相手のべき論があってこそ新たなアイディアが生まれるヒントになるだろうし、間を取るという意味ではわれわれ日本人は非常に卓越した能力を持っていると僕は確信している。
自分と相手の主張があって初めて新たなアイディアが生まれる。
これをR・コーヴィー博士は第三の案と言っている。
この状態になって、改めて、選ぶ、つまり三つの選択肢の中から選ぶというのが自由ではなかろうか?
話を戻すと、何か、違う意見でぶつかる場合、そして納得がいかない場合、相手が100%間違っている、自分が100%間違っているというのはありえない。
どんなアイディアでも、ある部分では正しく、ある部分では間違っているというほうが妥当だろう。
時にはヒートアップして、時には冷静に話し合いをすすめる。
「でもあの人はこうだから。」
それは過去の自分の記憶の中の一部のあのひとであって、”あの人”はあなたの知らない面もたくさん持っている。
あの人のすべてを観ることはできない。しかしながらあなたは常にあの人を観る努力はしているか?
問題は関係性の中でエラーが起きているだけだ。
私もこうしているんだから、相手もそうしろ。
この意見はある種正しい。
しかし、やりきっているか?
相手の為を思ってやりきっているか?
結局は自分本位になっていないか?
おそらく、相手の為を思ってやりきったのであれば、相手も自然とそうする。
自分の心の中のひとりごとはあるか?
もしあるのなら、徹底的に話し合ってほしい。
聴いてほしい。
心の声を。
それが不思議な事に、相手との問題の種なのかもしれない。
もっと、感じてほしい。
心の声を。
見て、味わって、匂って、触れて。
世界を変えることは簡単だ。
それは視点を変えるということ。
あらゆる関係性の中にそのヒントが隠されている。
最高に楽しもう。この世界を。この肉体を。この魂を。
心の声が聞こえているか?
さぁ、この人生では何をしようか?
あなたの自由だ。