みなさんこんにちは

 

 

今回は「中途半端」について考えてみましょう

何年かタイに住んで、日本に戻った時の違和感、まるで別の惑星に来たような… 

 

帰国して一番強く感じたのは、「ニコッとしても目が笑っていない」ことでした。人間型AIロボットならあのような感じかもしれません

 

知人がスピリチャル系のブログを始めたので、それ系のプロのブログを読んでみると、第一印象の悪さ・違和感・悪い直感・ピンときたなどは、「生命を脅かされるサイン」だそうです

 

面接は第一印象で決まるとハロワで言われましたが、そんな秘密があるのかも

 

タイ人、特に集団の中に入ると、「この人はいい人」と独り言のように言います、まだ出会って5秒もたっていないのに?あれは直感だったのかと思います

 

自然界からの警告が無視できなくなった現代

 

 

話を「中途半端」に戻しましょう

冒頭のロボットのような人間…そこには絶対間違ってはいけない。それには手抜きしない完璧主義者の空気が支配しているように感じます

 

日本人は(あまり良くない意味で)真面目です、真面目が経済を発展させましたが副作用として人の心を疲弊させたように思います…

*いまや日本の幸福度は51位とか(タイの47位を下回った)―この統計は複数ありますが目についたものです

 

 

 

目は笑っている

 

 

こんな世の中になったいま、たまにはカリカリしないで、手抜きや中途半端な生き方も実践しましょう、生活の知恵として、否、大袈裟かもしれませんが読者の命を守るために…

 

タイでは日本的「中途半端」

が求められました

 

筆者はタイにおいて「中途半端=いい加減」な生き方をさせられました…言い換えれば、「いい加減な生き方」をしないとタイ人と付き合うときに波長が合わない(タイ社会で浮いてしまう)、そんな感じを受けました

*いい加減は「良い加減」とも言われます…暑がり・寒がりがいるように、個人によって適温が違います、例えば規則でエアコン26℃設定をしても、暑いと感じる人もそうでない人もいます、その人によって(あるいはその日によって)最適(=完璧)な温度は違います、要するに、何かルールを決めるとほとんどの人がそのルールから外れ、その人にとって完璧ではなくなるのです…皮肉なことに

 

タイ語で「中途半端」はครึ่งๆกลางๆ(クルンクルン・クラーンクラーン)と訳されています、直訳の「半々で真ん中」は、東洋思想の「中道」「中庸」のニュアンスも一部含むと感じられるので、

 

タイ語の中途半端は「ほどほど」

といった感覚かもしれません

 

ところで

 

タイではどうして日本的な「中途半端」が否定されないのでしょうか?

 

大型トラック通れるの?

狭いコーンの間隔調整や検問

いつ誰がするのだろうか?

人影なしだが、ま、いいか

 

 

  1 完璧にやっても誰も気付かない

 

 

これは妬みで無視されるといった日本にありがちの思考ではありません、例えばある作業(何かの組み立てとか)を最初から最後までやりとげた!…ところが周囲のタイ人にはどこが100%か分からないような気がします

 

実はタイ人自身もどこが100%なのかよく分かっていないのがほとんどです

 

「完璧」という発想がない…

と思います

 

 

なるようにしかならない

タイで完璧を求めても疲れます

 

 

  2 途中で終わっても完璧

 

 

完璧はタイ語でเรียบร้อย(リーアップローイ)

 

例えばあるイベントや式典(高校だと文化祭とか)で、予定の半分ちょっとしかできなかった

 

途中で打ち合わせと違うパプニングが起こった…こんな場合、今日の「イベントどうでしたか?」と問えば「リーアップローイ(完璧?)」と言ったあと「楽しかった(サヌック)」と続けるでしょう、日本では少しでも手違いがあると「責任・責任」と煩いですね、責任フェチか?

 

私見ですが

 

全ての事をこなせなくても、

タイでは楽しければ

完璧感があるようです

 

特に手違いのハプニングは大歓迎

その場がより楽しくなります

 

あと5分以内に大雨

5分前は快晴

ハプニングが突然おこることを

自然界がおしえてくれる

 

 

  3 タイの「ウサギとカメ」 第2バージョンに学ぼう

 

 

日本でも学校で習う「ウサギとカメ」ーサボったものが負ける・怠慢の戒め

 

因みにトルコでは亀の替え玉がゴールにいる(これはアジアの民話に多いパターン)

 

インドでは寝ている兎を亀が起こすとか…

*インド版はにわかに信じがたいのですが、最近電車の中で「体調の悪そうな人を見かけたら、『どうされましたか?』とお声がけください」というアナウンスを聞きますが、タイやインドではそんな放送しなくても見て見ぬふりはしないはず、インドのカメはウサギの体調を心配したのでは?

 

さて、タイの「ウサギとカメ」は日本と同じですが

 

第2バージョンがあります

 

ウサギが走っている途中、遠くに見える綺麗な花に見とれコースをはなれ、別の所へいってしまいます、もちろん競争のことは忘れ夢中になっている間にカメがゴールするというパターンです

 

ウサギはレースに関しては中途半端(いい加減)です、ですがこのウサギ、試合の勝ち負けにこだわらず、楽しさを選択することで(多分)幸福度がアップしたと思いませんか?

 

そもそも、最初から勝敗が分かっていて、それでも歯をくいしばって諦めないことを賛美するなら日本は常軌を逸している、要はアホとしか思えません

 

カメは負けると分かっていても日夜努力をし、なんとかウサギと互角になれるよう訓練する、こんな危険な教育?が完璧主義を称え、中途半端(タイなら「ほどほど」)を見下したのでしょう

 

言い換えれば、できないことも、途中で投げ出さず努力してできなければいけないと教え込まれてきたのです

 

できないことをできないと認められることが悟りだと、曹洞宗の道元禅師は教えているのですが…

 

*タイの「ウサギとカメ」第2バージョンは、ひょっとしてタイの50歳くらい前の人は知らないかもしれません。第1バージョンは中国的、第2バージョンはインド的のように感じます、因みにラオスの国語の教科書には今も第2バージョンがあるかもしれません(10年前はありました).

 

どこが終点?

どこまで行けばいいのか

途中で日没

おなかがすいた

そこがオレの今日の終点

 

ウサギが途中で寝るのは眠くなったか退屈だったからで、このあたりのウサギの気持ち(=自分を大切にする)重要性は教えられず、怠慢は「悪」と習ってきました

 

日本版の偶然ウサギが寝てしまってカメが勝ったことはストーリとしては禁じ手ですが、そのあたりはうやむやにし、ひたすら走り続けるカメの「中途半端な行動をしない」ことが重視され、タイのように「運」にまかせることは否定的に捉える傾向になってしまいました、某著名人の著書のネーミングをもじって、タイでは、

 

99%は運

 

 

カメが勝ったのは努力の積み重ねで実力がついたのではなく「運」のおかげです

 

それを努力の結果や怠慢の戒めと教えるのはいかがなのものでしょうか?

 

「運」は「(ご)縁」とも言い換えられます

 

読者より出世した人もよく考えれば「運(ご縁)」です、もし「努力」を肯定するなら「努力」できたのも「運(縁)」、読者がいま、悪事をせず「善人」でいられるのも「運(縁)」です

 

駅で、読者が親切心で車椅子のけが人の手伝いをしようとしたところ車椅子の誤作動でホームに落ち死亡させたら読者は(証人や証拠がない場合)「殺人者」になってしまう…これも「運や縁」なのです…タイ人なら多分そう考えるでしょう

 

タイ語で「努力や努力の経緯」を褒める表現が無いのがその証です

 

成功した人に「すごい!(ケン・マーク)」と言いますが「運が良かったね」ということでしょう

 

そのかわり、「頑張りなさい」と言わないで「ご幸運を(チョークディー)」と相手の「運」を願うのです

 

筆者は「努力」の全てを否定していません。例えば、お金を払ってでもやりたい仕事に没頭することも努力ですが、このような自身とって充実したことへの努力は大いにやるべきだと思います、もっとも本人は「努力している・苦労している」という意識はないでしょう…

 

ところで

「蛍の光と窓の雪」、大雪の夜電灯を消して、窓ガラスのもとで本を読んでみましたが、読めるはずありません

 

「ロウソクの光、窓の外にある電灯」ならまだしも・・・このようにできないことを変な喩えで成し遂げることを教わった真面目な日本人…結果、残業200時間の過労死などが近年社会問題になっています

 

筆者も努力の良さは分かりますが、たまにはタイ的な「中途半端(ほどほど)」な生き方もおすすめです

 

 

完璧主義捨てますか 命捨てますか

 

ちょっと大げさですが…読者にお任せします、直感で判断してください

 

冒頭で日本帰国後「完璧主義」を直感した筆者は、その後、年齢的かつコロナの影響で,本業のタイ語の仕事がなくなり、中途半端な短期の仕事を繰り返さざるを得なかったのですが、結果的に良かったと感じています

 

なぜ?

 

様々な業界出身の人や、元クリエイター、イノベーターが本業の友人ができたこと

そして、何よりも(以前もやっていましたが)改めて現代の非正規社員の世界を知ることで日本人理解が深まり、このブログを始めるきっかけとなったからです、ずっとタイにいれば、かえってタイ人がわからないまま終わったと思います

 

 

今日は3月31日、タイでも卒業証書の授与式ですおめでとうございます

 

最初に教えた生徒はもう30すぎ

 

ここまでにしましょう